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No.1501-No.1600 2004/06/302004/09/04
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1599. Re: 質問 さわらびT  2004/09/04 (土) 23:05
カタアキ様

はじめまして、わざわざお越しいただきありがとうございます。この文章を書いたのは、3年前でした。あれれ・・・という感じで、読みました。大山先生にメールさせていただいたところ、「すっかり私になりきってますね」と、いたっておおらかな」ご返事があったと記憶しています。

探してみたのですが、そのページは消えているようです。私の指摘が届いたせいかはわかりません。大山先生は、昨年平凡社から出版された『聖徳太子の真実』というタイトルの本を編集されました。あえて申し上げますが、加藤謙吉先生のように、聖徳太子虚構論ではない先生も書いておられますので、注意深く読まないとマズイんですが、大山先生も力を入れておられます。ネットで検索されるより、この本を読まれるほうが、有益でしょう。

なお、ネットで参考になるのは、大山先生の説にパンチョさんが、反論されておられるページです。こちらも力作で、大変参考になると思います。

http://www.bell.jp/pancho/hyper-history/siron_shotokutaisi/ooyama/cover.htm

実は、私自身ですが、最近の大山先生の「蘇我王朝論」にはちょっと首をかしげております。女帝が支配している国として7世紀を考えています。




1598. 質問 カタアキ  2004/09/04 (土) 22:20
はじめまして。あちこち興味深く拝見させて頂いています。
「聖徳太子」はいなかったのページの最後の方で紹介されている
『日本史上最大の人物聖徳太子は創作された人物で実在しなかった!聖徳太子は架空の人物である』というページに興味があるのですが、アドレスを教えてもらえませんでしょうか?




1597. 遠部台遺跡と神楽場遺跡 さわらびY(ゆみ)  2004/09/03 (金) 23:06
『失われた史前学』を読んでいたら「昭和7年の遠部台遺跡調査状況」という写真がありました。
阿部先生が「ちょうど背景にこのエノキの位置する場所を選んで、カメラを据えてみると、ほぼぴったりと、土器塚のある一角が史前学研究所の発掘地点であったことがわかる」と述べておられたので、その風景をもう一度注意して見たいと、遠部台遺跡へ行ってみることにしました。
(朝その前に、曲輪ノ内遺跡へも寄ってみました。発掘調査が佳境に入っていて、とても勉強になりましたが、そのルポは正式な報告がされてからにしたいと思います。)

たしかに、3年前、発掘していた地点に立って昭和7年(1932)の写真と見比べると、台地の端の樹木の形はあまり変わっていません。
70年たっても樹林のシルエットって変わらないのですね。

もうひとつ気がかりなことがあり、臼井と志津の間にある神楽場遺跡へ寄ってみました。
ここの遺跡を通る水道道路(成田街道のバイパス)の南側は東邦大病院建設時に発掘調査されて佐倉市教育委員会から報告書も出ています。
道路の北側はのどかな畑が広がっていて、ユーカリヶ丘のビル群が遠望され、遺跡を通る古道には道祖神の祠もあり、風景写真のかっこうのカメラポジションです。(何度も通っても納得する作品ができませんが・・)
そして遠部台遺跡と同じく、畑の畦道は土器片がいっぱいで、ぬかるみ留めの砂利がわり!

ところが最近、水道道路沿いの斜面をカットして門前薬局やGS、コンビニが次々に出来てきています。
私は日常的にこの道路を通ることが多く、工事の度に注意して観察していたのですが、調査風景に出会ったことはありませんでした。(あれば興味津々「なにしてるの」と押しかけるのが私のくせなのに)
カットされた土の断面はそのままですので、今はいつでも見ることができますが、この先どうなるのかと思い、近づいて登ったりして観察してきました。この報告はそのうち作成したいと思います。(近いところはいつも後回しになる傾向がありますが、これもきっとそのうちに・・)

病院の隣の佐倉西高校内の飯郷作の古墳群も、新学期前に夏草がきれいに刈られて今がみどころです。
臼井-志津間を車で通れられる時は、病院横のコンビニやGSで小休憩されてはいかがでしょう。




1594. 『失われた史前学』に夢中です さわらびY(ゆみ)  2004/09/01 (水) 23:35
『縄文社会を探る』が読み終わったところで、阿部芳郎先生の最新の著書『失われた史前学 公爵大山柏と日本考古学』を読み始めました。

阿部先生が調査をされた遠部台遺跡は、かつて大山柏(大山巌と捨松の次男)が当時としては画期的な科学的手法で発掘調査した歴史を持っていること。
大山柏が私財を投じて開設し戦前の考古学の礎となった史前学研究所が戦災で壊滅し、その跡を奇しくも阿部先生が緊急に調査せざるをえなかったこと。
そんな書き出しから、大山柏の伝記とその研究史が綴られていきます。

まだ3分の1を読んだところ、ただいまその面白さに夢中です。
曲輪ノ内貝塚で、江原台は阿部先生が「戦前の考古学者が調査した学史的にも注目される遺跡」とおっしゃられたことがわかりかけてきました。

ところで、前書き込みの最後に紹介したURLで、環状盛土遺構の報告例をあるけ〜さんが衛星写真にプロットしてりっぱなマップが出来上がりつつあります。
毎日少しずつ増えていますので、9月の佐倉市でのシンポジウムまでいくつになるか楽しみです。




1593. Re^2: 環状盛土遺構のある遺跡について さわらびY(ゆみ)  2004/08/29 (日) 15:26
曲輪ノ内の発掘は週末でお休みのようでしたが「歩いてみると起伏がよくわかる」と阿部先生に言われたとおり、昨日は周辺の畑を一人で歩いてみました。

前夜、空撮写真に阿部先生の2001年の図をプラスして概念図を作ってみようと試行錯誤し、少しは土地勘が得られたように思われたのでとりあえず行ってみたのですが、畑の区画や植生は変わっていますし、特に目印になるものもない茫漠たる光景にどの辺にいるのか迷うことしきりでした。

確かに、台地上の畑にしては起伏もあり、またその斜面には、土器のかけらや貝殻がこぼれるように落ちています。
このまま持って帰って灰皿にでもできそうな土器の底部がそのまま転がっています。(一応文化財だし、わが家にガラクタが増えるのもいやなので、とるのは写真だけ)

なんとなくつかんだ感触を手がかりに、空撮地図に阿部先生の図の内容を加筆した遺跡の概念図に深夜再度チャレンジしてみました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ebaradaiiseki/image4.jpg
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ebaradaiiseki/ebaradaiiseki.htm

AM1時半ごろUPしてからメールチェックをしたら、あるけ〜さんからこのBBSで紹介された盛土遺構のある遺跡の作品の紹介や作図のコツのメールをいただいていました。
ありがとうございます。作図はウェブアートデザイナーである程度できるようなので、次の更新でチャレンジしてみたいと思います。

次のURLは、お手本のあるけ〜さんの環状盛土遺構の集大成(できたてほやほや!)のページです。
http://chiba.zzkt.com/eisei/e_kanmori_kanto.html#




1592. Re: 環状盛土遺構のある遺跡について さわらびY(ゆみ)  2004/08/28 (土) 00:21
T花さま

貴重な情報をありがとうございます

> 埼玉県さいたま市にある馬場小室山遺跡でも環状盛土遺構が見つかり・・
> 東側に谷津が入ること・一見、古墳がいくつかあるように見える盛土・・

初めてお聞きする遺跡名ですが、探せば千葉や栃木(寺野東)のほかにも関東には環状盛土遺構が見られるのですね。
もし今後も保存されるのであれば、ゆっくり行ってみてみたいです。
ものの見方についてのあたらしい発見は、どの分野でも連鎖的な発見につながるようで、環状盛土遺構についても各地からの今後の新しい知見が楽しみです。

下総台地の身近な地域の地理と重ね合わせながら「縄文社会を探る」を読んでいます。
人為的な堆積層に集団の強い意図があったのか、人の営みの自然の結果なのかの討論が面白そうですね。

この本の中にあった「曲輪内貝塚のひろがりと土器塚・貝塚の位置」という阿部先生の2001年の図を参考に、あるけ〜さんの作図を見習って、試作品を作ってみました。ペイントで作ったので曲線がうまく表現できず、楕円のわっかだけの概念図になってしまいました。先生の「黒味を帯びた土層の範囲」(=青線)はもうちょっと勾玉のような形になります。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ebaradaiiseki/kuruwanoutiiseki3.JPG

なかなかあるけ〜さんのように上手にできませんね。
やはりフォトショップを買わなきゃダメかしら?




1591. Re: 騎馬民族説 さわらびT  2004/08/28 (土) 00:04
オホヤシマ様

> 渡来人の役割は重要だったと思いますが、朝鮮半島からきた人がすぐ倭王権のトップクラスになるほど、倭王権は脆弱だったとのかという疑問があります。
> むしろ、渡来人を掌握した勢力が国内で力をつけていったという実態があったのではないでしょうか。

私も、そのような考え方が健全だと思っております。ただし捨てがたい魅力が申先生のお考えにはあります。昨年の加耶の旅のレポートで少しふれました。まさに江上説。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.2.html

騎馬民族説を取り上げるとなると熱が入るところですが、馬がそもそもいつから日本列島にいるのか、古墳殉葬馬の事例を集成されて検討されたのが桃崎先生の業績ですね。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm

馬は軍事だけでなく農耕や交通手段として利用価値が高いことは明白です。導入の契機が軍事だったのかはわかりませんが、伝播も早かったようです。

「古墳時代の地域社会復元・三ツ寺T遺跡」(若狭徹著・新泉社、2004年)を読んでましたら馬の導入は蒸気機関車の発明に匹敵するエネルギー革命、と表現されていたので、なるほど、と思ってます。この本でも紹介されていますが、剣崎長瀞西遺跡の馬の埋葬土坑から轡が出土してますが、この遺跡は五世紀前半のようで、この地域にすでに馬匹生産も行なわれた可能性を示唆していますね。(剣崎長瀞西遺跡の轡は下記を参照しました)

http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f9.jpg




1590. 環状盛土遺構のある遺跡について T花  2004/08/26 (木) 13:45
佐倉市井野長割遺跡や曲輪ノ内遺跡で縄文時代後晩期の環状盛土遺構が調査され、9月26日にシンポジウムが開催されるなど何かと最近話題ですね。なお、県外ですが、埼玉県さいたま市にある馬場小室山遺跡でも環状盛土遺構が見つかっており、現在9月中旬までの予定で発掘調査が実施されています。詳しくはさいたま市教育委員会にお問合せください。
当方は位置程度であればわかります。また、先日現場を見学したT氏及び遺跡の近くに住み、井野長割遺跡を案内したS氏は、規模・現況は井野長割遺跡と馬場小室山遺跡は類似点が多い(東側に谷津が入ること・一見、古墳がいくつかあるように見える盛土)といった話をされています。興味がある方は、ぜひご見学ください。




1589. 騎馬民族説 オホヤシマ  2004/08/26 (木) 12:34
さわらびT様
江上先生が作った会の30周年記念シンポで騎馬民族説が議論されるのも、意義あることと思います。ただ、全体の論調としては、申先生が孤軍奮闘という感じで、鈴木先生も、「日本史としては渡来人の問題」とされています。
渡来人の役割は重要だったと思いますが、朝鮮半島からきた人がすぐ倭王権のトップクラスになるほど、倭王権は脆弱だったとのかという疑問があります。
むしろ、渡来人を掌握した勢力が国内で力をつけていったという実態があったのではないでしょうか。




1588. Re: 曲輪ノ内貝塚調査ルポ拝見しました さわらびY(ゆみ)  2004/08/25 (水) 22:17
> 写真からみるかぎり、平坦ではっきりした盛土はないようですが、それらしいところはあるのでしょうか。

もと無線送信所跡とその裏のひろびろとした畑で、先生は、歩いてみると起伏がよくわかると言っておられましたが、ススキや潅木が生い茂っているところもあって、見渡しただけではよくわかりませんでした。
井野小の裏の森は、その点一目瞭然でしたね。
古墳が眠っているようにも感じられるマウンドですから。

あるけ〜さんなら、右上に貼り付けた江原台の航空写真をごらんになれば、きっとなにか遺構が見えてくるでしょう。

私は、曲輪ノ内という字名に何かかくされているような気がします。
この辺は中世臼井城の外城があちこちにあるところなのですが、臼井城惣構えについて調べたとき、ここに出城あったという記憶がありません。
江戸時代に佐倉藩士の屋敷があったらしいですが、曲輪のような地形だったのでそう呼ばれたのかなと思われるのですが・・

勉強不足の素人が聞きかじりのコメントをつけるのはよくないので、写真だけの物足りないページで、申し訳ありません。
大学や市、文化財センターからの公式発表があったら、ちゃんと更新したいと思っています。

> 9月末の発表が待ち遠しいですね。

そうですね。あたらしい知見がきっとあるでしょう。

> 知らせを聞いて、サボっていた、当方の井野長割遺跡のページに 空撮ページを追加しました。

さすが、井野小学校のHPで紹介されるだけあって、あるけ〜さん力作のHPは、わかりやすいですね。
9月のシンポジュウムの予習には最適です。多くの方がこれを見て参加されるのではないかと・・・




1587. Re: 広開土王碑文ほか さわらびT  2004/08/25 (水) 19:45
オホヤシマ様

日曜日(22日)は、篠川先生の講演も聞き応えがあったし、満足な一日でした。国造制の研究は、残念ながら活発とはいえないとのことでしたが、さすがに第一人者、含蓄のあるご発表でした。

国造制の成立時期については、わからないことが多いようで、山尾先生のように大化前代の国造制を否定される方がおられてもおかしくない、ともおっしゃっておられましたね。篠川先生は磐井の乱を契機に地方官として、地方豪族を組み込む体制が出来たとのお考えですが、まさに軍事的な動因を目的とする要因があるということになるようです。東国での国造制の成立時期の問題も、関心ありますし、このテーマでもう一度お話をうかがいたいくらいでした。

こうした第一線でご活躍の研究者の講演会に参加させていただき、勉強する機会も多いのですが、古代史の勉強で、私が知りたいのはこの国の成り立ちのプロセスなんですね。今、私たちの生活するこの国はどのようにつくられたのか、世界的な普遍性があるのか、・・・等々、興味は尽きないです。

『倭人のクニから日本へ』ですが、申敬チョル先生の説にも触れないわけにはいきませんね。大成洞古墳群の被葬者から騎馬民族を想定しておられるわけです。この人々は後には高霊もしくは多羅(玉田)、あるいは日本列島へと移動、特に支配者集団は畿内に移動したのだと、考えられておられるようです。

武末先生の反論も、興味深く読んでます。私も騎馬民族征服王朝説には大いに関心のあるところですので、気になります。「土壙木槨や殉葬の近畿での不在は、騎馬民族征服王朝説の成立を困難にする」という武末先生の発言にさらに申先生が反論するという展開・・・・

こういった武末先生と申先生の議論を読ませていただきますと、桃崎先生(現在は武末先生と同じ大学にお勤めです)にも、議論に加わっていただくと面白いな、などとふと考えてしまいました。




1586. 曲輪ノ内貝塚調査ルポ拝見しました あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2004/08/24 (火) 21:56
曲輪ノ内貝塚調査ルポのページ、拝見しました。
盛土遺構に注目しておられるとのこと。
写真からみるかぎり、平坦ではっきりした盛土はないようですが、
それらしいところはあるのでしょうか。耕作で削平されている?
やはり環状の盛土?
おもしろくなってきましたね。
9月末の発表が待ち遠しいですね。

知らせを聞いて、サボっていた、当方の井野長割遺跡のページに
空撮ページを追加しました。




1584. ありがとうございます さんにゃん [URL]  2004/08/24 (火) 21:48
さわらびY様

ご指摘ありがとうございます。言葉足らずだったので自サイト該当頁のテキストを若干訂正しました。

私も「浜出」「磯出」という性格を持つ祭の分布には興味があります。事例は規模をある程度以上に限定するとかしないと、たいへんだとは思いますし、そもそも浜に出る理由がいろいろなのでしょうが。当地でいえば「禊」らしき行事が見当たらない(祝詞はあげますが)のが不思議です。

こちらこそ、よろしくお願いいたします。




1583. 広開土王碑文ほか オホヤシマ  2004/08/24 (火) 12:37
さわらびT様

「倭人のクニから日本へ」読んで頂きありがとうございます。
この本にはいろんなテーマが次から次へと目白押しで出てきますので、このなかのテーマを掘り下げていくだけでも、ここ10年の古代史研究がまかなえるくらいだと思います。
徐先生の見方は日本人にはないもので、なかなか新鮮ですね。
栄山江の話も興味深いものです。




1582. Re: 勝手ながらリンクさせていただきました さわらびY(ゆみ)  2004/08/23 (月) 22:40
さんにゃんさま

金砂大祭礼のHPは他にもたくさんあるのですが、その中から当サイトを「浜出祭」の紹介サイトへのリンクいただき、たいへん光栄に思っております。

私も、「金砂大祭礼謎ときノート」で、「4.磯出祭はほかにあるのか?」「5.大田楽の謎」という全国的な広い視野での考察を試みていたのですが、事例を集めるたいへんさに中断したままになっています。
千葉県では、浜出祭・浜降り神事・磯出祭など、けっこういろいろ残っています。
9社の神輿が集まる三山の七年祭でも、そのうち4社が幕張海岸で「磯出式」を行います。
私が密着取材した高津ひめ神社は参加しませんが、海岸で安産祈願の「産屋の神事」がおこなわれ、前回の七年祭の年に生まれた男女が、神前に供えられた蛤を交換しあったり、舁夫が榊を奪いあったりする古式豊かな神事だそうです。

さんにゃんさまのHPを拝見し、またすこし浜出祭について考えていきたいと思っていますので、今後ともよろしくお願いいたします。

なお、金砂の大祭礼は西金砂神社が3月22日から28日、東金砂神社が3月25日から31日という延べ10日間の日程で行われました。うち重なったのが3日です。当サイトも紛らわしい記述になっていたことを反省し、「金砂大祭礼謎ときノートT」のページを更新修正いたしました。その点をどうかご確認ください。




1581. 『倭人のクニから日本へ』 さわらびT  2004/08/23 (月) 22:11
『倭人のクニから日本へ』(学生社、2004)を昨日の講演会場で購入出来ました。オホヤシマさんのご努力が実った成果ですね。私たちにはありがたい贈り物です。

シンポジウムの顔ぶれも豪華ですし、内容豊富で、これからも話題にさせていただくことになるでしょう。幅広く国家形成の問題を考える指針となる発表であったとお思います。村上先生の鉄の問題なども、話題に取り上げてみたいです。

そういえば、このシンポジウムのあった年の春には歴博でも加耶をめぐるシンポジウムもありました。実は、そこに村上先生がパネラーとして参加されていないことを残念に思った記憶があります。

昨日の篠川先生の講演も素晴らしかったので、書きたいことだらけですが、土曜日に広開土王碑の拓本を見た記憶を優先!

徐先生の発表の部分をまず読んだのですが、予稿集には書かれていなかったようですので、引用します。比較王権論という立場で、日本の良賎制を考えると、古代天皇制は他の王制と異なるとおっしゃられてます。

「西アジアの古代イランの社会ではカーストという身分制度がありますが、その最上位の身分は祭祀や宗教の管理者であり、国王は第二の身分の武士の身分に属していました。また、汚れや清めというインド教の思想によって分けられている古代インドのカースト制の場合、国王は最上位のカーストではなく、第二位のカーストでした。これに対し、日本古代の天皇の場合、天皇には身分が存在せず、あらゆる成員の上に立って、自分の意志で社会の成員に姓(カバネ)を賜るいわゆる超越した存在でした。これが日本古代王権の一つの特色ではないかと思います。」

説得力あるな、と実感してます。

小林先生が、広開土王碑文の辛亥年を391年ではなく331年の可能性を提起されたのですが、討論の中で徐先生は研究史から建碑が414年であり在位年代(391から412)に収まる391年とするのが妥当とする見解を話しておられます。

ただ、小林先生の提起の内容ですが、碑文のこの文章の中では永楽元年とせず干支で表現されていることに意味があるのではないか、というご指摘です。また、391年とすることでそれ以前の「日朝関係史が封印されているという印象」があることに警鐘を鳴らされたようです。ワクワクして読んでいます。




1580. Re: 佐倉市曲輪ノ内貝塚の調査について さわらびY(ゆみ)  2004/08/23 (月) 22:04
T花さま

明治大学の調査の情報をありがとうございました。
さっそく「おじゃま」してきました。

遠部台遺跡で、すごい土器塚を掘っているとお聞きし、発掘現場に押しかけたのが3年前。そのあと、八千代市の博物館でも阿部先生のご講演をお聞きし、すっかりファンになりました。
今年はどこを調査なさっているのかしらと、思っておりましたし、今日までちょうど夏休みをとっていたのでグッドタイミングでした。

先生と学生さんが調査しているのを、(現説とちがって、)ああ、こんな風にするのかと、午前中ずっと眺めてました。
先生が学生さんにやさしく指導されていて、時には、土運びも先生が学生に代わってなさっていらしたり・・もちろん、突然のオジャマムシにも親切の対応してくださいました。

ルポをUPしましたのでご覧ください。なお、コメントに間違いがあればどうかご指摘いただきたいと思います。

> 井野長割遺跡は縄文時代後期から晩期の環状盛り土遺構のある遺跡ですが、どうやら千葉県内には他にも同様の遺跡があるようで、曲輪ノ内貝塚も、関連する遺跡らしいです。

帰りに夏休み中の井野小学校の構内から、井野長割遺跡の森を歩いてきました。本当に不思議な起伏がありますね。

9月26日のシンポジウムが楽しみです。




1579. 勝手ながらリンクさせていただきました さんにゃん [URL]  2004/08/23 (月) 13:49
はじめまして。さんにゃんと申します。
西国にて地元紹介サイト「おちゃっぴぃ」をやっている者です。

地元の祭「浜出祭」の紹介サイトを作成中、類似祭礼の紹介サイトを探していて、こちらの金砂大祭礼の頁へ伺いました。画像がたくさんあってわかりやすく、その他の頁も興味深い内容がもりだくさんで楽しませていただいてます。

そこで、まことに勝手ながら、浜出祭の類似祭礼紹介頁からリンクさせていただきました。事後になりましたが、ご報告させていただきます。紹介文等、問題がございましたら、お手数ですがご連絡いただければ対応いたします。

それでは、サイト運営は大変ですが、これからもがんばってくださいませ。
↓リンク頁「浜に出る祭」↓
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8071/hamaide/yosinasi13.html




1578. 佐倉市曲輪ノ内貝塚の調査について T花  2004/08/22 (日) 23:55
9月26日にシンポジウム『井野長割遺跡を考える』で発表する明治大学の阿部芳郎氏が、発表に関連する遺跡である佐倉市曲輪ノ内貝塚の調査を8月いっぱいまでの予定で実施しています。場所は佐倉市江原台にあるユニディの裏あたりですが、詳しい場所を知りたい方は佐倉市教育委員会文化課へ電話してください。
井野長割遺跡は縄文時代後期から晩期の環状盛り土遺構のある遺跡ですが、どうやら千葉県内には他にも同様の遺跡があるようで、曲輪ノ内貝塚も、関連する遺跡らしいです。




1576. 夏の終わり? さわらびY(ゆみ)  2004/08/22 (日) 23:02
お堅いネタばかりで書きにくいのですが、はまっていたTVドラマが一段落して、今少しぼーっとしています。
冬ソナのラスト、よかったですね。何回見てもいいというまさみさんの気持ちわかります。
新撰組は、堺雅人演じる山南さんが死んじゃったし・・・
(8時からと10時からのBSと2回も見ていたら、さすがTにあきれられてしまいましたが・・)
しばらく余韻の世界にいましょうか。なんとなく私の夏も終っちゃった感じがします。




1575. シンポジウム『井野長割遺跡を考える』の情報 さわらびY(ゆみ)  2004/08/22 (日) 21:27
今日、佐倉市の音楽ホールに合唱コンサートを聴きに行った際、次のようなチラシを入手しました。
そのうち主催者サイトに掲載されるでしょうが、今のところまだ未掲載のようでしたので、要旨のみ入力しました。

シンポジウム
『井野長割遺跡を考える』〜環状盛土をめぐって〜
9月26日(日)午前10時受付(申し込み不要)
会場:志津コミュニティーセンター
主催:佐倉市教育委員会/印旛郡市文化財センター
問合せ先:TEL 043-484-6294

10:45〜11:45基調報告「井野長割遺跡の環状盛土遺構」
  小倉和重 [佐倉市教育委員会文化課] 
  田中大介 [印旛郡市文化財センター]
12:45〜「寺野東遺跡について」
  江原 英 [(財)とちぎ生涯学習財団]
13:15〜「三直貝塚について」
  吉野健一 [(財)千葉県文化財センター]
14:00〜「三輪野山貝塚について」
  小栗信一郎 [流山市教育委員会] 
14:30〜「遠部台遺跡・曲輪ノ内貝塚について」
  阿部芳郎 [明治大学文学部]
15:10〜 討論会「井野長割遺跡を考える」[司会:堀越正行]
16:30〜 現地見学(小雨決行) 

井野長割遺跡について詳しくは、下記サイトを参考になさってください。
印旛郡市文化財センター http://www.inba.or.jp/data/ino.html
千葉市の遺跡を歩く会 http://chiba.fc2web.com/inonagawari/inonagawari-1.html




1574. 奥琵琶と若狭の古寺巡りから-2 さわらびY(ゆみ)  2004/08/22 (日) 12:06
8月19日は、台風15号が日本海を通過する最中でしたので、天候が心配でしたが、添乗員さんが気を利かせて、船路で竹生島へ行く行程を、高月・木之本の寺社巡りと差し替え、さらに奥琵琶湖パークウェイのつづら尾崎から湖面を望むことができました。
TOPの画像は、台風の余波で珍しく波立つ湖面に雲の切れ目から日が差す瞬間です。
この右手には、中世史であこがれの菅浦が眼下に見えたのですが、それは、またゆっくりご紹介したいと思います。




1573. 奥琵琶と若狭の古寺巡りから帰りました さわらびY(ゆみ)  2004/08/22 (日) 12:04
お久しぶりです。
17日から夏休みをとったのですが、八千代市郷土歴史研究会の機関誌原稿や資料作成に追われ、さらにTを置いて友人と、19日から21日まで奥琵琶と若狭の古寺巡りの旅に出ていましたので、すっかりご無沙汰してしまいました。
BBSは、その間も古代史のお話で盛り上がっていたようですね。

かつて久野健の『仏像風土記』の東北の古仏に惹かれ、Tと車で廻りましたが、集落で管理している収蔵庫を事前に村の方に連絡し鍵を開けてもらい拝見しました。
奥琵琶と若狭の古寺は、井上靖や白洲正子の名文の世界。
国宝・重文の観音像の宝庫ですが、こちらも足の便も悪く鍵を開けていただく手間もたいへんそうなので、今回は旅行社のツアーを利用。あまりにも効率よく廻ったので、頭も中も画像整理も時間がかかりそうです。
一応、行程を載せておきます。

1日目8/19:〓米原―渡岸寺(十一面観音)―石道寺(十一面観音)―己高閣(鶏足寺の十一面観音)−世代閣(戸岩寺の薬師如来・月光月光菩薩など)−伊香具神社−つづら尾崎−菅浦(湖北の隠れ里・須賀神社)−奥琵琶湖畔・マキノプリンスホテル泊
2日目8/20:―若狭歴史民俗資料館―明通寺(国宝・三重塔)―神宮寺(お水送りの寺)―萬徳寺(庭園・阿弥陀如来)−小浜・福喜旅館−妙楽寺(千手観音)―円照寺(大日如来)―羽賀寺(十一面観音) −小浜港せくみ屋泊(−さば街道資料館)
3日目8/21:―熊川宿−奥琵琶海津大崎(大崎観音・阿弥陀堂)−マキノプリンスホテル〜船で竹生島・宝厳寺〜彦根〓米原




1572. 東博で「特集陳列 広開土王碑」開催中 さわらびT  2004/08/21 (土) 23:07
東京国立博物館で、「特集陳列 広開土王碑」開催中です。(東洋館第8室)

関心を持つ者としては、必見。墨水廓填本(酒匂本)と、新収蔵の石灰拓本が並べて陳列されています。東京大学蔵拓本も展示されていて、違いがよくわかります。

また東京大学蔵の瓦が出品されています。1913年(大正2)に関野貞・今西龍氏らによる調査が行なわれているということで、そのときの蒐集品のようです。

今日は谷豊信列品課長による講演「広開土王碑をめぐる諸問題」がありました。太王陵出土の3種類の瓦は千秋塚、将軍塚のそれとも対応するそうです。太王陵の修理の時期と重なっているのではないか、という解釈が出来るらしい。考古学的には、太王陵→千秋塚→将軍塚となるとのこと、果たして広開土王の墓は、太王陵か、将軍塚か?谷課長は将軍塚説のようですが、昨今の太王陵説も気にされてるような一言もありました。

広開土王碑が作られたのは、長寿王の平壌遷都と関連があるとのお考えを話されました。都を遷すことを視野に入れて高句麗の総括をしたのではないか、つまり国家の発展にとって、重要な決断をするにあたってこの碑を立てたという指摘ですが、印象に残りました。

この展示は10月3日(日)まで。




1571. Re: シンポ本 さわらびT  2004/08/19 (木) 22:22
オホヤシマ様

早く手にとりたいですね。ご講演が間近ですので、篠川先生の「日本古代国造制の研究」(吉川弘文館、1996)も読みつつあります(といいながら、オリンピックの映像の誘惑に負けてしまうこのごろですが・・・)が、また読むべき本が出来ました。

資料集を見ていますと、参加できなかった初日の寺沢先生の場合、エンゲルスの「反デューリング論」や滝村隆一「マルクス主義国家論」などにも言及されたかなり意欲的なご講演だったようですね。

武末先生と申敬チョル先生の面白い論争もあったとか。話題豊富な内容ですね。




1570. シンポ本 オホヤシマ  2004/08/19 (木) 12:33
さわらびTさんヘ
徐先生はその後かなり加筆されまして、ますます面白い内容になっています。やはり、中国からみた視点も必要ですね。
小林先生の広開土王碑文の新説は討論でもとりあげています。
野中寺論争はその後どうなったのでしょうか。

いつか、加藤先生を呼んで、5、6世紀位の王権論のシンポでもやって、本にしたいですね。




1569. Re: シンポジウム本「倭人のクニから日本へ」発売 さわらびT  2004/08/18 (水) 22:21
オホヤシマ様

ご案内ありがとうございます。中国社会科学院教授の徐建新先生が、このシンポジウムの報告者のお一人でした。発表をされた二日目の会場に出向いたことを思い出しました。(余談ですが、初日は、シンポジウム「墳丘墓から古墳へ−秋葉山古墳群の築造−」があったので欠席。)

この記録集が、本になるとのお話、是非拝読したいと思います。

徐先生の報告は「東アジアから見た日本古代国家の形成」というテーマで、中国正史の記録から日本古代王権の発展を概観し、「王権神聖化の歴史現象」の系譜を跡付ける・・・といった内容。
エンゲルスの国家概念から説き起こしておられるのも、徐先生らしいです。私の印象では日本の古代国家形成の道筋についてかなり、「好意的」な見方をされているようです。私どものほうが、「自虐的」とは申しませんが、特殊性を考えすぎるように思えます。

日本語でお話されたので、当時は多少聞きづらかったという記憶がありましたが、昨年お会いしたときは、もっと流暢になっておられました。

あと、このシンポジウムで私が興味を持ったのは熊谷公男先生の発表「天皇支配の形成」、野中寺弥勒像銘文に関する東野説−麻木説を取り上げられて、麻木説に軍配をあげられたと記憶しています。(違っていたら、ご訂正ください。)

もう一つ、小林敏男先生の報告で、広開土王碑文の「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年来、渡□(海)破百殘、□□新羅、以爲臣民」、の「辛卯年」を331年とみる可能性を述べておられましたのでびっくり。最初の報告でしたが実は遅刻して、よく聞けなかったんですが、これもあらためて読むことが出来るのですね。




1568. シンポジウム本「倭人のクニから日本へ」発売 オホヤシマ  2004/08/18 (水) 12:16
東アジアの古代文化を考える会が創立30周年を記念して開催したシンポジウム「日本古代国家の起源・・倭人のクニから日本へ」が本になりました。
 書名「倭人のクニから日本へ」
 著者 上田正昭、寺澤薫、武末純一、村上恭通、申敬鉄、
    小林敏男、李成市、徐建新、吉井秀夫、熊谷公男
    奥野正男、鈴木靖民
 出版社 学生社
 定価  2520円(税込)

日中韓の考古学、歴史学の第一線の研究者が古代国家について、幅広い角度から論じた面白い本です。
なお、このホームページで紹介いただいている8月22日の東アジアの古代文化を考える会の講演会(池袋生活産業プラザ)では
税込2200円で販売しますので、ぜひお越しください。




1567. Re: 三燕の帯金具 さわらびT  2004/08/14 (土) 22:55
ご研究の成果を論文にされておられるわけですから、それを一読しただけで、感想を申し上げるだけなので心苦しい限りです。

職人さんとしては、常に新しい意匠を心がけたものなのでしょうか。それとも、本来は伝統を固執するものなのでしょうか。両面あるのかな。もちろん依頼主の意向もあるでしょうが。

「初論中国南朝前期の金属工芸」(帝京大学山梨文化財研究所研究報告第11集)も拝読させていただきました。掲示板の読者の便宜もありますので、ふじい様には多少ご迷惑かと存じますが、ちょっとばかり説明しながら、また素人なりの感想です。

この論文で、南朝前期(北は北魏、南は劉宋〜南斉の時代)の金工を特徴づけるものとして、「鋳造切削彫刻技法」と「鋳造轆轤挽き技法」の成立とし、その一方で漢三国両晋時代の伝統に基づく、金工技術の発展もあったと伝えておられます。切削というのはつまり塑性と違って、切りくずが出る技法ということですね。技術のことがわからないので基礎から勉強です。これは整形するにあたっての、技術的進歩というのか、それともいわば一種の流行なのでしょうか。疑問だらけですいません。

こうした新技術を創出したのはこのころ衰退した青銅器を製作していた工人であったと推測されておられること、また生産組織の問題として、漢代以来の国家管理の体制を保持していたにもかかわらず、組織再編が繰り返されたのは、新たな金工製品創出の動きであり、政治的な動乱を背景に経営・管理能力が低下し、職人たちの北朝や民間への流出が起こっていることをあげておられます。

先の論文からも印象付けられたのですが、職人の主体的行動にシンパシーを感じておられる筆者を想像しています。

五世紀には、江南に劉裕の建国した宋が生まれ、北は鮮卑拓跋部の北魏が統一を成し遂げていたわけですね。工人たちは、王朝のめまぐるしい変遷に振り回されているようにも思うのですが、したたかに自らの技術を磨くことに生きがいを見出している職人気質みたいなものが伝わってきました。勝手ながらそんなことを考えさせられました。




1566. 三燕の帯金具 ふじいやすたか  2004/08/14 (土) 08:06
 いつもご丁寧な書き込みレスをいただきありがとうございます。
 さて三燕の帯金具の様相がたびたび課題としてあがりますので、それに触れておかなければいけません。
 鋸歯文が周縁にめぐるなど、主文構成を変えずに付加されるだけの要素は地域色などの発現しやすいところです。また龍文の表現は、祖形モチーフを見出しつつ、一頭の龍の姿全体として検討すべきものですので、爪だけを比較して何かを言うのは難しいとおもいます。体の特定のパーツだけが丁寧だが全形としては雑、というものもあるからです。
 また自分の宣伝で恐縮ですが、三燕の帯金具については、
(拙著「三燕における帯金具の新例をめぐって」『立命館大学考古学論集』V、立命館大学考古学論集刊行会、2003年)
 をご参照ください。三燕の最新資料について評価をしております。




1565. Re: 晋式帯金具の数 さわらびT  2004/08/13 (金) 08:48
ふじい様

毎日暑いですね。そちらも同様の暑さでしょうか。何度も、お返事いただきありがとうございます。大量生産する品というわけではないですね。

帯金具は特に盗掘しやすい品のように思えます。出土地不明のものは、盗掘品なのかな、と思ったりしました。

「晋式帯金具の製作動向について」(『古代』第111号 早稲田大学考古学会、2002年)、読ませていただきました。友人のT氏が、お持ちでわざわざ届けていただきました。感謝。

専門的な分析については、素人の私にはとうてい理解できませんが、晋式帯金具に多系統が存在するというのは、興味深いご指摘だと感じました。また定点となる、宜興周處墓(297年)例、広州大刀山晋墓(324年)例、を踏まえ新山古墳例の制作年代を310年ごろとされている理由もわかりました。多系統というのは、官営工房のほかに「奢侈品を私製する私営工房」があるのでは、とのお考え、これまた刺激的でした。

晋式帯金具の列島出土品は、今のところ2例だけですよね。ご指摘の別系統のものが、わが国内の発掘でどこからか出てくると面白いなと思ったものです。特に、三燕の系統のものが、何らかのルートで入ってくるとなると「騎馬民族説」などへの想像力も誘発されます。

第6図朝陽奉車郡尉墓の龍のデザイン、周囲に鋸歯文がめぐっているのは、独自性のあるデザイン変化ということなのでしょうか。的はずれかもしれませんが、爪の表現が細密化してるようにも感じました。これは1例だけでしょうか。

わかりもせず、思いつきの感想ばかりですいません。読み違え等ございましたら、ご指摘ください。夏は発掘にもかかわられるのでしょうか。厳しい暑さです。健康に、くれぐれもご留意ください。では。




1563. 晋式帯金具の数 ふじいやすたか  2004/08/12 (木) 23:23
またお邪魔します。いつも一方的ですみません。

> この晋式帯金具の発掘例は少ないようですが、三角縁神獣鏡と比較するのはどうかと思いますが、もっと列島内に入ってていいようにも思います。

三角縁神獣鏡のように列島にたくさん入っていることはないでしょう。
というのは、日本の研究者は三角縁神獣鏡をことさら強調するのですが、本来その重要性は研究資料としてのものであるにすぎません。
魏志倭人伝をよく見てください。倭に対して、中国皇帝はさまざまな下賜品を与えます。それは外国の使節に対して与えるメインの贈り物がいくつもあって、最後に、汝に好き物を賜うといって、「銅鏡百枚」が登場します。すなわち銅鏡百枚は、中国皇帝からの下賜品としては、メインどころか、付属品の付属品くらいの位置づけでしかなかったわけです。一方で、晋式帯金具はどうでしょう。官爵にともなうだけでなく、中国皇帝の帝室づけの直営工房の製品です。これが下賜品としてメインの品の一つでなくて何でしょう。
 というわけで、根本的に物の性格が違うので、晋式帯金具は、そうたくさん列島内にあるはずがないのです。




1562. 企画展「はにわの来たみち」 さわらびT  2004/08/12 (木) 21:57
市原市文化財センターで開催中の企画展「はにわの来たみち」に行ってきました。山倉1号墳の埴輪が生出塚で作られたことは間違いないようです。

帰りは、文化財センター始発・五井駅行きのバスの時間に合わせたのですが、行きは、八幡宿からのバス方が早そうなので、そうしました。20分ほど山田橋というバス停に着きますが、そこから5分ほど歩くのですが、気持ちよかったです。HPに、バスの時刻表も載っていますので、よく時間を確かめてから出向くといいですね。

http://ihbc.homeip.net/index.htm

正直なところ、交通の便がよいとはいえないのですが、この市原の地は王賜銘鉄剣でも有名なところ、掲示板の読者の皆様も是非ご訪問ください。

今日は、急に出かけようと思い立ったせいで、携帯・デジカメ・時計など持たずに出てしまい、ちょっとあせりました。

平日のせいなのでしょうか、ほとんど客足はなく、そのおかげと申しましょうかご担当のK氏や、M氏から(勝手にお名前を出しては失礼と思い、イニシャルにしました)、お話を聞かせていただくことが出来ました。

残念ながら、山倉の報告書はすぐに売り切れたそうです。その代わりHPで公開中。ところが、私のパソコンの状態が悪いせいなのでしょうが、(IEのアドレスバーも消えてしまった!)、PDFがうまく読み込めないとお伝えしましたら、ご丁寧にCDに保存してださいました。この場を借りて、あらためてお礼申し上げます。




1561. パソコンが復旧しました さわらびY(ゆみ)  2004/08/11 (水) 22:48
修理中のモニターが無事戻ってきましたので、やっと私のPCが使えるようになりました。(修理といっても電源コード交換しただけのようです)
紙送りのローラーだけが不具合なプリンターは、もったいないけれど買うしかないようで、ついでに大容量HDも物色中です。

HP「さわらび通信」のメンテナンスもさっそくいたしました。
これから秋にかけては、八千代市郷土歴史研究会の郷土史展と「史談八千代」の発刊でPCも忙しくなりそうです。




1560. Re: 篠川賢先生講演のお知らせ さわらびT  2004/08/10 (火) 21:08
オホヤシマ様

ご案内ありがとうございます。
『日本書紀』は「筑紫国造磐井」と記していますが、篠川先生は、『書紀』の、磐井をうったのちに境を定めた、あるいは乱後に屯倉を献じたという記事が示すのは、この地域に国造制が実施されたのが、磐井の乱後と考えるというお考えですね。(『大王と地方豪族』山川出版社、2001年など参照しました。)

以前、ご講演をお願いしたときの打ち合わせで、国造制では人が集まりませんよ、とおっしゃられましたがとても興味深いテーマですね。楽しみです。




1559. 篠川賢先生講演のお知らせ オホヤシマ  2004/08/10 (火) 09:28
またまた失礼しますが、下記の講演がありますので、興味のある方は
ご参加ください。誰でも参加自由です。直接会場にお越し下さい。
篠川先生はこのBBCでも話題になっていましたが、国造制では
第一人者の方です。

連続講演シリーズ 「継体天皇とその時代」 第3回
日 時:8月22日(日)13:30〜
テーマ:「磐井の乱と国造制」
講 師:篠川 賢先生(成城大学教授)
場 所:豊島区生活産業プラザ 
   (豊島区東池袋1-20-15 池袋駅徒歩5分)
定 員:80名(予約不要、開場後先着順)
   どなたでも参加できます。直接会場にお越し下さい。
資料代:会員1300円、非会員1500円、学生 500円
問い合わせ:東アジアの古代文化を考える会(稲垣)
     (電話 090-9835-1857 稲垣)




1558. 「木戸町のささら舞」の記述の訂正 さわらびY(ゆみ)  2004/08/09 (月) 22:06
「-真夏の大地に 雨を祈る-館林市木戸町のささら舞を追って」を、お招きいただいた「ささら舞保存会」の方に見ていただき、アドバイスをお願いしましたところ、丁寧にご覧いただいて、2つほど訂正の必要なことをご教示いただきました。 

ひとつは、ささらの演目に関して、赤城神社で奉納したのは、シャギリ(社切)、イリハ(入庭)及びハシガカリ(橋掛)というもので、棒術という太刀による動きの時に、3人が平行のまま、舞っているのが、シャギリ、単調な繰り返しのようでいて、かなり難しいのがイリハだそうです。

もうひとつは、赤城神社でシャギリに説明してされている方は会長さんです。
ご病気中とお聞きしていたのですが、病をおして出て下さり、奉納の獅子舞が終わった後、すぐに点滴に向かわれたそうです。
お詫びと感謝の意を表するとともに、心からご回復をお祈り申し上げます。

このページをすぐに更新したいとあせっているのですが、私のパソコンがまだ修理から戻ってこないので、とりあえずBBSでお知らせします。

お知らせいただいたIさま、ありがとうございました。




1557. 朝明郡家跡の発見 さわらびT  2004/08/07 (土) 22:09
岡田登教授(皇學館大学史料編纂所)が、先ごろ発表された「壬申の乱及び聖武天皇伊勢巡幸と北伊勢−朝明郡家跡の発見を契機として−」(皇學館大学史料編纂所報 第191号)を読む機会を得ました。この報告は、加藤先生から講義の際にお知らせいただいたのですが、気になる内容でしたので先生にお願いして上記資料をコピーしていただきました。加藤先生、お世話になりました。

下記のように、遺跡保存問題もかかわっていますので、皆様にお知らせいたします。

http://gaea.human.mie-u.ac.jp/~koukogaku/kurube/yobo.htm

四日市市教育委員会による大矢知町久留倍(くるべ)遺跡の調査で、この遺跡が朝明郡の郡家遺跡であることが確認されたと岡田教授は述べておられます。さらに、このことによって、壬申の乱における通過地で、天武天皇が天照大神を遥拝したとされる地の場所の特定が可能になったということです。

『日本書紀』には天武天皇は6月26日、「旦於朝明郡迹太川辺望拝天照大神」、とあります。またその原資料として採用したと思われる「安斗智徳日記」の記すところによれば、「辰時、於明朝郡迹大川上、而拝礼天照大神拝礼。」とあります。(※朝明郡が正しいのですが)
従軍した舎人の日記が採用されていますので、大海人皇子が戦局を展望しつつ伊勢神宮に拝礼したのは、おそらく事実だったと思われます。

さて、この迹大川(とほがわ)とはどこか、については、いくつかの説があったのですが、岡田教授は新たな知見を示されました。

通説では、朝明川とされているのですが(直木孝次郎『壬申の乱』など)、久留倍遺跡が朝明郡家と確定されたとなると、位置の矛盾が生じてきました。久留倍遺跡より南側の位置に求めざるを得ません。そこで、すでに唱えられてはいたのですが、「三滝川説」というのが有力になってきました。

「東大寺諸国庄々文并絵図等目録事中」(『大日本古文書 東大寺文書』)に「三重庄 絵図一 天平勝宝九歳四至 東布沼雪上埼 南遠河 西甘南淵山 北河多良河」とあり、この史料の分析などから、三滝川と海蔵川の合流地点があり、合流地点以東を「遠河」と読んでいた可能性が高いと述べておられます。久留倍遺跡からこうした史跡が、復元できるというのはすごいです。




1556. Re: HPに「熊野三山」探訪記を追加 さわらびY(ゆみ)  2004/08/05 (木) 20:59
Don Panchoさま こんばんは。
「霊験あらたかな熊野三山に詣でる」拝見しました。
2日間の行程とはいえ、完璧な熊野三山のレポートで、これから訪れる方々には歴史を深く知るための素晴らしいガイドとなることでしょう。
この中の「日本仏教の特性」というページも、興味深く拝見しました。
内容はもちろんですが、行間をとったレイアウトとページ作りも読みやすく、さすが、コンピューター技術のプロ!ですね。
これからも、HP作りの「目標」としていきたいと思います。

熊野古道へは、2000年翌年の2001年のGWに行きました。
2000年のGWの熊野詣は、リックを背負っての徒歩での山越え峠越えでしたので特に感慨深く、「さわらび通信」の最初のころの作品となりました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kumano/kumano.htm

2001年は吉野から十津川へ南下し、玉置山に登り、花の窟から伊勢斎宮へレンタカーで回りましたが、そのうちにと思っているまま、吉野の写真を一枚UPしたまま、HPの完成にはいたりませんでした。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kebegami/01.05.02yosinokattejinnja.jpg

というわけで、最後の花の窟神社は、とても懐かしかったです。
これからも、素晴らしいレポートを見せていただきたく、期待しています。

ところで、猛暑と関係があるのかわかりませんが、私のPCのモニターとプリンターが相次いでダウンし、メールとネットだけは(今晩は飲み会?の)TのPCを借りて、何とかは発信しています。
そういえば、2002年に私の新品のPCのHDがダウンして、大泣きした夏も猛暑でした。
PCのない生活は、台所が使えないみたいなものでとても不便ですね。
PCも熱中症になる? そんなことないか。やはり?




1555. HPに「熊野三山」探訪記を追加 Don Pancho [URL]  2004/08/04 (水) 23:27
先月の1日、中国蘇州で開かれていたユネスコの世界遺産委員会が、「紀伊山地の霊場と参詣道」を世界遺産に登録することを正式に決定したことは、すでにご存じだろうと思います。その中に熊野三山の霊場や参詣道も含まれています。

またぞろ歴史探訪の虫が騒ぎだし、7月22日/23日の2日間、友人たちと急ぎ足で熊野三山に参詣してきました。その折の探訪レポートを小生のホームページの歴史探訪ブースに「霊験あらたかな熊野三山に詣でる」というタイトルで追加しました。渡来人とはあまり関係ありませんが、興味がおありならアクセスして一読願い、感想などお聞かせください。




1554. Re: 晋式帯金具:中国の立場から さわらびT  2004/08/03 (火) 23:13
ふじい様

論文を拝読することもなく、勝手に書き散らしてしまったことに、ご丁寧にご返事いただき恐縮です。
考古の資料はあまり手元にないものですから、町田章先生の『古墳時代の装身具』(『日本の美術』aB371)を写真とにらめっこしながら読み直し、龍の文様というのは皇帝のしるしだから、日本列島の王権とのかかわりの中でもらってきたものなのか、と漠然と考えていました。
実用品というのは、被葬者が身につけていたものだったなら、威儀具として生前から重要なものだったであろうと、思ったわけです。

「日本出土の二例はともに中国製品であるが、鍔が一種類である点が中国出土のものと異なっており、両社の間に格式の違いがあったことを示しているのかもしれない。」

町田先生の文章を読んで、何らかの階層秩序は反映されているものなのかとも感じました。

この晋式帯金具の発掘例は少ないようですが、三角縁神獣鏡と比較するのはどうかと思いますが、もっと列島内に入ってていいようにも思います。行者塚は近年の発掘ですので、具体的に被葬者の埋葬状況も含めて詳しくわかるのか、なと素朴な疑問でした。逆に時代を遡るものかとも思ったものですから、明快に御説明いただき、納得しました。直接入手したものとなると、後世に伝えられなかった、遣使があったというわけですね。

論文入手してきちんと読ませていただきます。ありがとうございました。

たびたび引きあいに出して、申し訳ないですが、ドン・パンチョさんのHPいつも参照させていただいてます。

http://www.bell.jp/pancho/travel/umami/sinyama%20kofun.htm




1553. 晋式帯金具:中国の立場から ふじいやすたか  2004/08/03 (火) 00:14
 こんにちは。ここのところたびたびお邪魔しています。
さて、さわらびTさんへ。
 > 新山古墳ですが、4世紀前半と考えていいのでしょうか。帯金具からも年代が決められるのでしょうか。卑弥呼の時代は、魏の王権から入手したのは、鏡だけではないのでしょうが、いずれにせよ分配しますね。同じように、晋から倭の王権が入手し、配下の豪族たちに配布したというわけでしょうが、この帯金具は実用品だったのでしょうか。

 私は中国の研究をしていますので、中国の目からお答えします。
 新山古墳の年代は、晋式帯金具だけにかんしていえば、それでよいです。おそらく製作年代が310年ごろと考えられます(拙稿2002「晋式帯金具の製作動向について」『古代』111号 早稲田大学考古学会)。そして西晋からの下賜品といえます。無難に考えれば、倭王権による一括入手を経た結果とみるのが穏当でしょう。しかし、この段階の倭国内ではまだ「府官制的秩序」を体現するものとして使われたとまでは言い切れないとおもいます。なお、おっしゃる「実用品」の意味をはかりかねますが、身に着けることもあったかもしれません。

 > 行者塚のものも、同じ晋代ですが、多少時代はずれるのでしょうか。こうした晋代の製品がもたらされた経路などは決めようはないのでしょうが、なぜここにあるかは問いたくなります。

 行者塚のものは、東晋からの下賜品で、製作年代は4世紀後葉〜5世紀初頭でしょう。経路は、基本的には中国から直接とみるべきです。義煕9(413)年遣使というものがあります。倭国使が高句麗使とともに来たというもので、その不自然さから実質的には高句麗がでっちあげた遣使とする説がありますが、いまだ結論が出ていません。しかし4世紀後葉〜5世紀初頭の間に、なお文献に直接的に表れてこない倭国遣使があった可能性は充分にあると考えます。そうした機会に入手したものでしょう。




1552. 「館林市木戸町のささら舞」をUP さわらびY(ゆみ)  2004/07/31 (土) 22:27
7月25日に見学の機会をえた館林市木戸町のささら舞のアルバムと取材ノートをまとめ、UPしました。

「-真夏の大地に 雨を祈る-館林市木戸町のささら舞を追って」 http://homepage1.nifty.com/sawarabi/040725isasaramai/sasaramai1.htm

はじめに立ち寄った「亀田鵬齋記念館」とその開設者で郷土史研究家の飯島栄一郎氏にも、邑楽郡や木戸町の歴史について多くのことをお教えいただきましたが、テーマが複雑になるので、プロローグと付録のページで、簡単に触れさせていただくだけにしました。

長くなるのでHPでは書き漏らしましたが、木戸町の飯島翁が、亀田鵬齋に深入りしたきっかけは、鵬齋が木戸町の神明社の幟の揮毫を依頼され、「大神宮」と幟に書いた史実を、郷土史の研究過程で見つけたからだったそうです。
なぜこの村の神社の幟の字を書いたのかとたどってみると、江戸生まれと通説でいわれている鵬齋が、実は館林に近い上野国上五箇村の出身で、この地域には鵬齋の多くの縁者がいて、芸術も盛んだったことがわかったとのです。

今日は、八千代市高津の高津ひめ神社のミソカゴモリに参加させてもらい、旧家のおばあさま方から昔のことや石造物の由来、民俗行事について教えていただきました。
毎月のようにこのオコモリに通いながら、郷土史の原点を学んでいます。

日本列島の北から南、韓国や中国へ旅していても、自分の歴史探訪の根っこはやはり郷土史にあるような気がしています。
そういう意味で、木戸町の飯島翁との出会いは感動ものでした。




1550. 葛城氏かな? さわらびT  2004/07/30 (金) 23:45
ふじい様の書き込みから、刺激を受け、思い出しながら書いてます。基本的なことがわかっておりませんので、質問といいますか、2年前の疑問の問い直しになるかもしれません。新山古墳が馬見古墳群は葛城か?・・という問題にもかかわります。

帝京山梨の研究報告第11集、今のところ入手しておりませんので、言及できませんのでご容赦ください。直接の関連ではないのですが、『馬見古墳群と葛城氏の検討』(「古代を考える59」)を手に取りましたので、感想程度には、書いて置こうと思いました。

新山古墳ですが、4世紀前半と考えていいのでしょうか。帯金具からも年代が決められるのでしょうか。卑弥呼の時代は、魏の王権から入手したのは、鏡だけではないのでしょうが、いずれにせよ分配しますね。同じように、晋から倭の王権が入手し、配下の豪族たちに配布したというわけでしょうが、この帯金具は実用品だったのでしょうか。

それとも、まさに王墓だったのでしょうか。

行者塚のものも、同じ晋代ですが、多少時代はずれるのでしょうか。こうした晋代の製品がもたらされた経路などは決めようはないのでしょうが、なぜここにあるかは問いたくなります。でも、本当に発掘例が少ないんですね。中国出土例とバラエティに違いがあるそうですが、この龍の文様はいかにも皇帝のしるし、って気がします。

私は行ったことがないので、馬見古墳群については、パンチョさんのコラムを興味深くかつ楽しく読ませていただきました。

http://www.bell.jp/pancho/travel/umami/preface.htm

他のページも、すごく勉強になってます。




1549. 倭の五王の時代 さわらびT  2004/07/27 (火) 23:08
ふじいやすたか様

はじめまして。私は江上先生の「騎馬民族征服王朝説」に関心がありまして、先年、知己を得た桃崎先生に教えていただいたりして、知ったかぶりで書いてますが考古学は不案内です。

五世紀の東アジアを理解するのに、鈴木靖民先生が論じられるところですが、「府官制」(中国皇帝から将軍号を授けられることで、王が臣下を軍事的性格を帯びた府官に任命する制度)という概念も参考になるところです。それだけ軍事的緊張もあった時代において、中国王朝と交流を継続していた。倭の五王があれほどまで、将軍号の授与を追及した歴史的事実に興味がありますから、まして帯金具が中国南朝の遺物というだとすると、関心が深まります。

時間をかけて勉強させていただきます。これからもご教示ください。




1548. 帯金具の話 ふじいやすたか  2004/07/27 (火) 12:48
 先日話を蒸し返してしまいましたので、少し意見をのべさせていただきます。私は日本列島の帯金具はごく一部を除きすべて中国南朝製であると考えます。
 その根拠のひとつ、金属工芸の技術的な流れについては、帝京山梨の研究報告第11集の拙稿で述べました。技術的な型式変化の方向性は一貫しています。
 もうひとつ、日本列島出土の帯金具は、未発見資料の存在を考慮したとしても、あまりに数が少なすぎませんか。また、新山古墳のような晋式帯金具は4世紀代から5世紀初頭までに、七観古墳タイプの帯金具は5世紀前・中葉に、穀塚古墳・江田船山古墳タイプの帯金具は5世紀末葉に、とそれぞれ時期的なまとまりがあって、各時期に前代の帯金具が混在していることがない、というのはあまりに不自然ではないでしょうか。こうした状況をどうお思いでしょうか。
 しかも各時期的なまとまりが、中国南朝の王朝交替と一致することは、私は偶然とは言えないとおもいます。したがって私は、一部の資料を除き、日本列島出土の帯金具は中国南朝製、「倭の五王」の帯金具と考えて大過ないと考えます。




1547. Re: 鈴木先生 さわらびT  2004/07/26 (月) 23:15
オホヤシマ様

ご丁寧にありがとうございます。盛況でしたね。

鈴木先生は幅広く研究されておられて、中世城郭である松ヶ崎城の保護活動もされておられます。

教えていただいたのですが、先日、柏市文化財に、指定されたそうです。(「柏市指定文化財16号 松ヶ崎城跡」)
詳しくは、http://www.ne.jp/asahi/home/ws/matsugasakijo/matsugasakijo/bunkazai1.html

ご本職の朝鮮古代史ですが、田中俊明氏の説に批判的な観点を示されましたね。難しい!確かに時間をかけてじっくりうががいたいです。




1546. 鈴木先生 オホヤシマ  2004/07/26 (月) 13:53
さわらびT様

鈴木英夫先生の講演にお越し頂きありがとうございました。
私も朝鮮古代史は不勉強なのですが、やはり継続的な勉強の必要性を痛感した次第です。
加藤先生の氏族勉強会とまでもいかないまでも、鈴木先生をお招きして何か継続的にやりたいですね。




1545. Re:好きなことやっていると暑さは気にならない あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2004/07/26 (月) 00:21
こんばんわ
おかげさまで当方の遺跡めぐりは猛暑の中、無事終了しました。
さわらびYさんも大活躍だったようですね。

>印旛郡市文化財センター第8回遺跡発表会
行きたかったのですが、所用のため行けませんでした。
25日は、市原の発表会もあったとこちらのBBSではじめて気が付きました。
>太田長作遺跡出土の籠目の跡が残る弥生式土器
見事ですね。まんまるで黄金色に輝いてる。
>館林木戸町の獅子舞
さわらびさんならではのすばらしいvividな画像に驚きました。

ちょっと前のですが、観音寺のお掃除小僧も傑作ですね。
八千代市のお寺ってなんかユニークな石造物が多い?




1544. 好きなことやっていると暑さは気にならない? さわらびY(ゆみ)  2004/07/25 (日) 22:49
猛暑の中、皆様いかがお過ごしですか。
千葉の遺跡を歩く会の掲示板を見ると、今日の遺跡めぐりに際して、熱中症対策の注意が書かれていましたね。ほんとうにご苦労様。

今週は、19日の高津の現地調査に引き続き、昨日は、佐倉の城址公園と植物苑へ行った後、佐倉市立中央公民館での印旛郡市文化財センター第8回遺跡発表会で、出土物を見たり、小野先生の講演や調査報告をお聞きしてきました。

なんたって、歴博付属のくらしの植物苑の温室の暑かったこと! さすが見学者はほとんどなく、ここで大事に育てられている変化朝顔を自由にマクロでたっぷりと撮影できましたが、汗びっしょりでした。
遺跡発表会では、太田長作遺跡出土の籠目の跡が残る弥生式土器がすばらしかったですね。
昨年の高盤に続き、お宝画像がひとつ増えました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/040724yayoidoki.jpg

今日は、友人に誘っていただいて館林の近くの木戸町のささら舞を見る機会に恵まれました。八千代市にも佐山と勝田に残っていますが、関東ではほとんど全ての村ごとに三匹獅子舞を夏に行っていたそうです。
街道沿いの小さな宿のあるムラですが、県庁や市役所勤めの旧家の皆さんが頑張って伝統あるささら舞を守っていました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/040725sasaramai.jpg

午前中は、その旧家の83歳の郷土史家が、一人で蒐集して研究調査して、母屋の旧宅ではじめられた亀田鵬斎記念館を見せていただきましたが、地域の目立たない中にはすごい方がいらっしゃるのだと感心しました。

猛暑は、汗をかきつつアウトドアで動いているほうが、体もやはり快適ですね。
好きなことやっていると暑さは気にならないのかも・・
皆様はいかがですか。




1543. 山倉古墳群の埴輪 さわらびT  2004/07/25 (日) 22:17
今日、『第19回市原市文化財センター遺跡発表会』が五井駅前サンプラザ市原2階プラザホールで開かれました。報告は以下の4本。
@山新遺跡(姉崎、二子塚古墳に隣接する古墳)
A西野遺跡群(海上郡衙推定地、布状遺物が出土)
B辺田古墳群(古墳時代前期、底部穿孔壷などの遺物)
C山倉古墳群(古墳時代後期、ご存知山倉1号墳の埴輪)

この掲示板でもたびたび話題にしてきました山倉1号墳の埴輪が埼玉県鴻巣市生出塚から供給されたことが確定、少なくとも11人の工人が携わっていたらしい。残念ですが調査報告書の頒布は終了したようです。(いずれHPで公開される予定とか)
関連イベントですが、8月2日〜31日、企画展「はにわの来たみち−埼玉から運ばれた山倉1号墳の埴輪−」が開催されるとのこと。

http://ihbc.homeip.net/index.htm

加藤晋平氏(國學院大學講師)のご講演「蒼き狼の考古学遺跡について チンギスカンの考古学」もあり、楽しませていただきました。チンギスカンの墓は見つかるのでしょうか。ワクワクさせられたお話でした。




1542. 鈴木英夫先生のご講演 さわらびT  2004/07/24 (土) 22:46
『日本書紀』が描く古代の朝鮮半島とのかかわりについては、よほど慎重に検討しなければならないと考えさせられます。今日の鈴木先生のお話では「任那四県割譲」「己汶・帯沙問題」も論じられましたが、私達が安易に史料をよむことに注意を促してくださったものと理解します。

それにしてもこの暑い中、今日は満員の盛況でした。

今日の感想は、とりあえず先日、このHPで報告した『幻の百済と李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記 4.発掘された武寧王陵』についての補足のみで、ご容赦ください。

『日本書紀』雄略紀四月条にみえる「遣筑紫国軍士五百人」ならびに是歳条にみえる「筑紫安致臣」との関係ですが、私は筑紫国軍士五百人を率いたのが、筑紫安致臣であったと単純に理解しておりましたが、「東城王を護衛する筑紫軍士500名とは別働隊であって、彼等が高句麗水軍と交戦した」という解釈も可能であるとうかがいました。(これは懇親会で、個人的に質問したことです。)

「倭王武上表分の基礎的考察」(『古代の倭国と朝鮮諸国』所収)では、「安致臣らは、なお混乱の続く百済に帰国する末多王を護衛するのを主たる任務にしていたが、その途中あるいは帰路のいずれかに高句麗軍と交戦したのであろう」と鈴木先生は書いておられます。

今日の講演資料に、475年百済滅亡後の、倭王=武の対応について、@高句麗との戦争準備、それが宋への救援要請であり、称号で表現したのが「使持節郡督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」である。
A海路の防衛強化、『書紀』の表現で「津路要害之地」の構築である。
とあります。

これらの背景があって、例の栄山江(鈴木先生は「栄山江流域・西海」と表現されます)の前方後円墳の被葬者が、この「津路要害之地」に派遣された倭の将軍らの墳墓とする説を提起されました。

鈴木先生には、これからもいろいろ教えていただかなければならないと痛感した次第です。




1541. Re: 龍は? さわらびY(ゆみ)  2004/07/24 (土) 00:48
ふじいやすたか様、
初めまして。ようこそおいでくださいました。

>294番前後で展開されていた龍文帯金具の話題は、・・

2年前のみきこさんの稲荷山古墳の鈴付帯金具からの龍の話題。
また久しぶりに深いお話ができそうですね。といっても、私は専門知識からは程遠く、素人の直感とモノへの関心と不思議なことへの好奇心ばかりですので、申し訳ないのですが、全くの初心者とお思いになってお付き合いいただければ幸いです。

例の稲荷山古墳の帯金具、さてどこが頭やら尾なのか、私には意匠の系譜をたどらないと龍とはとても思えないのですが、やはり弧を描きながら反転する突起が4本目の爪の表現の名残りなのか知りたいところです。

今年、韓国の扶余博物館で1993年末に陵山里寺跡から出土した百済金銅大香爐を見ました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/04.04.26kannkoku/4.27.3.HTM
この台足の龍はすごいですね。デフォルメされた龍のデザインが6世紀までにいきついた極みなのでしょうか。

わかりやすいのは扶余外里遺跡の蟠龍文のせん(タイル)。これでなんとか香爐の龍のもとのデザインが理解できます。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/ryuunosen.jpg

にわか勉強で今日はここまで。ふじい様、みきこ様、今後ともよろしくお願いします。

ところで、小学館のPR誌の「本の窓」連載の夢枕獏の「大江戸恐龍伝」、8月号でちょっと面白くなってきています。
話は古代ギリシャやバビロニア、インド、中国はては日本の龍まで世界の民族が共通して持つ龍伝承の謎が小説の世界で展開していきます。
龍を見た人はいたはず?! 

私は、学生のころ薬科大学で竜骨という漢方薬を学んだときの驚きを思い出しています。(これはたしか神経症状に効く?)
恐竜の化石を、古代からみんな見て知っていたんだって。




1539. 龍って難しい みきこ  2004/07/23 (金) 21:54
ふじいやすたか 様
 このような形でお会いできてうれしいです。
確かにもう2年も経つのですね。帯金具から馬具へ、そして今は勾玉へと・・興味がいってしまっているのですが、忘れてしまったわけではありません!
 振り返って読み返してみましたが、なんだか恥ずかしいです。よくわかってもいなくて・・でもふじいさんのご研究がずーと心に残っていました。「研究報告」第11集の「初論中国南朝前期の金属工芸」を拝読させていただきました。非常に感銘を受けました。もともとは稲荷山古墳の鈴付帯金具が気になって、被葬者の立場をどのように表わしているのだろうという問題意識とやはり帯金具の美しさに惹かれてでした。
 やはり馬具と同じような流れの中で成立したものなのでしょうか。




1538. 龍は? ふじいやすたか  2004/07/23 (金) 19:47
 294番前後で展開されていた龍文帯金具の話題は、あれきりご興味が他へ行ってしまったのでしょうか。もはや2年近く経ち、無理もないことですし、いまさら蒸し返すのも何なのですが、、、。
 ネット中に、偶然過去ログの294番にたどり着き、ちょっと興味のある話題だったものですから。ごめんなさい。 




1537. 暑中お見舞い 開田 誠(北海道・厚岸) [URL]  2004/07/22 (木) 22:48
 暑中お見舞い申し上げます。
 私のところは、まだ20度をこえた日はありません。博物館のバイトを始めて忙しくなり?先だっての旅先(壱岐)で入手してきた赤米の田植えが済んでいません。今春から、近くの業者から高山植物を買ってきて、栽培?を勉強しています。その関連書を求めて、博物館のバイト先のひまな時間を楽しんでいます。また、山岳に関する本を取り寄せて、読んでいます。体が不自由になったので、代償行為なのでしょう。
 博物館の事務所で、外を眺めていますと、木々の上を飛んでいる蝶がいました。あれは何かと思い、その玄関前にしばし立っていました。
 それをみきわめてみよう、というのが明日からの楽しみです。
 北海道大学アイカップ自然史博物館でバイトを始めました。

 鈴木英夫さんの講演会に行きたいですね!!
 11月には、東京方面にも出かけます。その時の企画をお知らせください。
 北の熊はただいま忙しく、ふしぶしが痛いです。

 
http://www6.ocn.ne.jp/~wildmk/





1536. Re: 鈴木英夫先生講演会のご案内 さわらびT  2004/07/21 (水) 22:24
オホヤシマ様

ご案内ありがとうございます。

鈴木英夫先生には、お世話になっています。昨年、韓国旅行に出かけるにあたって事前勉強会の講師をお願いしたときにも、快くお引き受けいただきました。ご講演の記録は下記をご参照ください。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/jizenngakusyuukai.pdf

今年5月に、武寧王陵を訪れたのですが、鈴木先生の説も引用させていただきながら書きました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/04.04.26kannkoku/4.27.4.HTM

鈴木先生のお話がうかがえる機会があるのは、大変ありがたいです。楽しみにしてます。

なお来週は、加藤先生の講演会です。(主催:髻華の会)

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/04.07.31uzunokai.pdf

猛暑の毎日ですが、勉強もしなくっちゃ!




1535. 鈴木英夫先生講演会のご案内 オホヤシマ  2004/07/21 (水) 09:11
お話中失礼します。
この掲示板でおなじみの鈴木英夫先生の講演会があります。任那日本府や韓国の前方後円墳について、面白い話が聞けると思いますので、是非お越し下さい。誰でも参加できますので、予約なしで会場にお越し頂いても大丈夫です。分からないことがありましたが、下記携帯までご連絡下さい。
連続講演シリーズ 「継体天皇とその時代」 第2回
日 時:7月24日(土)13:30〜
テーマ:「六世紀前半の加耶・百済と倭 -「任那四県」・前方後円墳・「倭臣」-」
講 師:鈴木英夫先生(國學院大學講師)
場 所:豊島区生活産業プラザ 
   (豊島区東池袋1-20-15 池袋駅徒歩5分)
定 員:80名(予約不要、開場後先着順)
   どなたでも参加できます。直接会場にお越し下さい。
資料代:会員1300円、非会員1500円、学生 500円
問い合わせ:東アジアの古代文化を考える会(稲垣)
     (電話 090-9835-1857 稲垣)




1534. 高句麗古墳群 さわらびT  2004/07/19 (月) 23:07
今日、NHKでは一日中、世界文化遺産の特集を放送していました。『紀伊山地の霊場と参詣道』にももちろん関心はありますが、掲示板に書いてきたことで言えば高句麗古墳群です。

早乙女先生が紹介されていましたが、東京大学に残されている、90年前の調査時に模写されたという双楹塚の壁画は、カビの状態、剥落の様子も克明に模写されていて、驚きの映像でした。当時は日本人が調査したのですね。

放送では、ちなみにこの双楹塚の壁画の特色は、石室を一つの建物と見なして柱などを内側から見たように描いており、年代は5世紀中葉の舞踊塚に続く、5世紀後半とされます。(『朝鮮半島の考古学』)

平壌周辺の遺跡を拝見する機会は、なかなかありませんので、TVで多く放送していただきたいものです。




1533. Re: 感動 さわらびY(ゆみ)  2004/07/17 (土) 20:19
> 長門町の仏岩温泉です、仏岩について大変勉強されていますね

去年GWに、おじゃました別荘地の入り口のセンターの温泉ですね。ペンション「なちゅらる」http://www1.odn.ne.jp/natural/hic-2004/ に泊まり、そちらの温泉につかりに行きましたよ。

仏岩は、天候に恵まれて、山も花もお目当ての史跡の宝篋印塔もきれいに撮影できました。
たぶん、次のページをご覧になったことと思いますが、検索でご覧くださった初めての方からの書き込みやメールは、励みになります。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/1-12hotokeiwa/1-12hotokeiwa.htm
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/sinnsyuu/sinnsyuu6.htm

この時の旅の写真では、丸子町御嶽堂区上組自治会の方が、岩谷堂のフォトアルバムを気に入ってくださって、この続きのページをリンクいただきました。
http://www.ued.janis.or.jp/~naga1723/index.html

> 今後のレポートも期待しております、がんばってください。

ありがとうございます。これからも、北白樺高原周辺の史跡や自然をご紹介ください。






1532.  『藤氏家伝』の勉強会 さわらびT  2004/07/17 (土) 17:10
加藤先生の勉強会、『藤氏家伝』をテキストにして続けていますが、ちょうど乙巳の変のことがテーマになってます。

乙巳の変の性格をどのように解釈するかというのは、誰しも関心の深いところですね。教科書風に理解するならば、中大兄皇子と中臣鎌足が事件の推進者ということになっていますが、事実は違っていたようです。

王位継承をめぐる勢力争いがあったことは事実であって、それは推古朝前後の血なまぐさい事件の数々が、そのすさまじさを物語っています。同族と思われる人々が、多くの血を流さねばならなかったのはなぜなのか。新時代の到来を告げる政治変動だったことは疑いを入れないところです。

京都に血が流れたあの幕末維新も、そうした時代だったわけです。NHK『新選組』、いよいよ池田屋事件ですね。正直なところ、殺伐とした時代はあまり好みではないのですが・・・・

ところで乙巳の変に戻りましょう。皇極4年6月、蘇我蝦夷・入鹿父子が討たれるという事件がおきます。これが、『日本書紀』ならびに『藤氏家伝』に記される乙巳の変ですが、横田健一氏は、いわゆる「入鹿誅滅物語」の存在を指摘されました。(『白鳳天平の世界』を参照。後述の『飛鳥の朝廷と王統譜』に詳しい。)

加藤先生がエピソードとして『蘇我氏と大和王権』(吉川弘文館)の中で、乙巳の変の黒幕を倉山田石川麻呂と分析された同時期に北海道大学の篠川賢氏が、発表された論文のことも興味深い指摘でした。(加藤説は、上記ご著書を参照ください。)

乙巳の変で、蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされたあと、残された膨大な所領に関する処理の記事が『日本書紀』のどこにも記されていない、この事件は実は蘇我一族内部の族長権をめぐる争いであったと解釈すべきではないか。その遺産・所領は倉山田石川麻呂が継承したという説です。(『日本古代政治史論考』所収、「乙巳の変と蘇我倉山田石川麻呂」という論文、1983)

篠川先生は『飛鳥の朝廷と王統譜』(吉川弘文館)では、遠山美都男氏の有名な孝徳=主導説も引用されて従来の蘇我倉山田石川麻呂を部分的に修正されています。

大化改新はあったのか、に直結するテーマだけに、ワクワクします。




1531. 感動 仏岩  2004/07/17 (土) 10:49
長門町の仏岩温泉です、仏岩について大変勉強されていますね、
是非仏岩温泉に入りながら仏岩をご覧下さい。
当方に連絡いただければ入浴料サービスさせていただきます。
今後のレポートも期待しております、がんばってください。




1529. 佐倉と鎌倉、2つの中世考古学関係の催しの紹介 さわらびY(ゆみ)  2004/07/15 (木) 23:13
前の書き込みで紹介した「藪ログ」で知った2つの中世考古学関係の催しを、TOPページのお知らせ欄にリンクでご紹介しました。

ひとつは、印旛郡市文化財センター主催の7月24日(土)第8回遺跡発表会で、小野正敏先生が「城館の発掘が語る中世の印旛と東国」と題して特別講演も行われます。

発表遺跡のひとつ「佐倉市井野城跡」は、八千代市郷土歴史研究会発行『八千代の道しるべ』で 「道の案内記G萱田道V 小竹城址から飯綱権現砦跡へ」を書いたとき、そのルートにあったので、何回か調べに行った所。遺構が比較的きれいに残っていましたので、調査結果の発表が楽しみです。

また、こういうふるさとの城館で、人々がどんな生活をしていたのか、小野正敏先生の、発掘されたお茶碗やかわらけを通してのお話も興味深いですね。

詳しくは、リンクした印旛郡市文化財センターの公式サイトをご覧ください。

もうひとつは、先になりますが、9月4・5日中世都市研究会2004鎌倉大会 「交流・物流・越境」。

「忍性のたどった中世の風景」・「下総に律宗の痕跡を追って」のページで参考にさせていただいた先生方のお話を、直接伺えることがとてもうれしいです。

また永福寺(ようふくじ)跡見学もできるそう。ここには、二階堂(全国の「二階堂」の苗字のルーツ!)・薬師堂・阿弥陀堂などの壮大な伽藍や浄土庭園の存在が確認されています。

鎌倉大会の詳細な案内は、秋山哲雄先生が「考古学のおやつ」や「南河考研」の掲示板でこの内容を書かれておられ、また、「茨城城郭会」のメッセージボードなどにも転載されています。
主催者と転載されているHPの管理人さんの確認を得て、いつもお世話になっている「茨城城郭会」のメッセージボードをリンクしました。
なお、主催者からのお願いとして「宣伝していただけるのは大変ありがたいですが、転載の際には事務局までご一報頂けますよう」とのことですので、申し添えます。




1528. Linkページを更新、「鶴巻孝雄研究室」「美浦村お散歩団」「藪ログ」を追加 さわらびY(ゆみ)  2004/07/13 (火) 22:44
Linkページを更新し「鶴巻孝雄研究室」「美浦村お散歩団」「藪ログ<YABlog>」を追加しました。

「鶴巻孝雄研究室」は日本近代成立期(移行期)研究家で、東京成徳大学の鶴巻先生のHPです。
永年取り組まれてきた多摩の自由民権運動史、困民党の専門的な研究だけでなく、最近は、新撰組についても市民向けに講演され、わかりやすく、しかも研究最前線からの新鮮な論文と史料が公開されていますので、一読されてはいかがでしょう。

「美浦村お散歩団」「藪ログ<YABlog>」は、茨城県美浦村(競馬馬のトレセンがあるところ)のひづめさんのHP。
「美浦村お散歩団」は、茨城県稲敷郡とその周辺のフィールドワークのレポートで、なまのデータが豊富、また「藪ログ<YABlog>」は、毎日必見の情報掲示板です。

「藪ログ」の昨日の情報は「中世史家の永原慶二さん死去」の追悼記事、ちょうど開田さんからもお知らせがありましたね。

私も『「柳生の徳政碑文」を訪ねて』でふれましたが、先生の著作として中央公論社「日本の歴史10下克上の時代」を読みました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/page4.htm
柳生の徳政碑文の発見者である郷土史家杉田定一氏を丁寧に紹介なさっておられるお心に感動したのを覚えています。
ご冥福をお祈りします。




1527. Re^2: 死亡記事 さわらびT  2004/07/12 (月) 22:52
松下竜一氏のいい読者だったとはいえませんが、興味を持ったのは『ルイズ−父に貰いし名は』かな。大杉栄と伊藤野枝の子というだけで運命を感じさせる人生ですね。

『底抜けビンボー暮らし』に妙に共感したことも思い出します。お人柄などを知るはずもないのですが、伝わってきます。




1526. 永原先生 さわらびT  2004/07/12 (月) 22:41
お知らせいただいたように永原先生も亡くなられたのですね。

中世史の研究者であった冨澤清人氏を失ったのは、まだ40代だった。私自身は中世史を勉強したことはないのですが、学生時代の友人だった彼を通じて中世史の研究者には注目していました。永原先生は荘園制研究の権威として、高名でした。数年前、歴博で安土城をテーマにしたシンポジウムがあって、そのとき基調報告されたので初めてお話をうかがうことが出来ました。

また大きな存在を失いました。




1525. Re: 死亡記事 開田 誠(北海道・厚岸) [URL]  2004/07/12 (月) 22:38
松下竜一さんを偲ぶ会のお知らせ

松下竜一さんを偲ぶ会

日時 2004年8月1日 
   午後2時〜4時(開場1時半)
場所 大分県中津市文化会館(JR中津駅より徒歩10分)
871−0058
大分県中津市豊田町14−38
電話 (0979)24−1155

服装 平服
遠方の方の宿泊は各自で予約して下さい。
問合せ先 梶原得三郎 電話(0979)23−1134 




1523. 死亡記事 開田 誠(北海道・厚岸) [URL]  2004/07/12 (月) 19:32
 新聞の死亡記事を読むのは旅さきから帰ってきた時が多い。
 たまってしまった新聞の中に、読者として接していた方の死亡記事に触れて驚くのだった。ふだんは、読むこと注意することがないのに、そういう時にだけ注意してしまう。
 それが今では、いつも注意して読み始めてしまうのは、私が余命2年ですよなどと言われたからであるのだろう。

 永原さんの本は、おもしろいとは思わなかったが気になりそのすべてを読みつづけてきた?! 目録販売に載せている。
 原田さんは将棋棋士。私がはじめて手にした将棋の本はこの方の詰め将棋の本でした。将棋の本などがあるんだと思った小学生の時、隣家の古書店で買った。中学生になって図書館に行くと大山の本があった。1,2冊読んでみて、親父と勝負して勝ってしまった。
 原田さんの解説ビデオは、大変おもしろい。YHの方においてあるのだが、取りに行きたい。
 今朝の新聞に、永原慶二さん、原田泰夫さんの死亡記事があった。

 8日の新聞では、高畠通敏さんが亡くなったのを知った。死因は肝不全。道新は肝臓ガンで闘病中であったとふれていたが、毎日はガンに触れていなかった。今朝の毎日は永原さんの死因はガンと書いているが何のガンなのかについて触れていない。

 今週の「図書新聞」に松下竜一さんへの追悼文を書かれているのが川原一之さんであった。松下さんの本は入院中に3冊読んで販売目録に載せたところ注文があった。
 川原さんの本も目録に載せているが、注文がない。川原さんの鉱毒事件への追跡であった岩波新書が絶版になっていた時、友人が再販を求める運動をしていたのは、20数年も前のことだった。
 このたび、通販古書店を始めるのだよと言った時に彼女からいただいた本の中に『辺境の石文』があった。
 追悼文の中で知った。川原さんが現在ダッカ(バングラデシュ)にいて国際的に鉱毒事件を追い続けている。感心しました。松下魂を受け継いでいます。




1521. 真忠組と新選組の時代(3) さわらびT  2004/07/11 (日) 18:34
今日は、参議院議員選挙開票の関係で、放送開始が早まるようです。ちなみに投票には、行ってきました。イラクと憲法を考えてます。

ところで、先に鶴巻先生のHPから引用させていただいたこの手紙ですが、義父の近藤周斎らにあてたもので実物は残されていないものの、写しが残っているために重要な証言として価値があるわけです。

五ツ時とあるので午後9時ごろのことですが、会津藩はなぜかなかなかあらわれず、しびれを切らした新選組は二手にわかれて探索、近藤たちは池田屋のある三条小橋を目指し、土方たちが縄手に向かったようです。

「四ツ時頃打入候」、つまり夜の十時半ごろのこと「多勢潜伏致居兼而覚悟之徒党」と一戦交えることになったわけだ。

「打入候者者下拙沖田永倉藤党下拙養子周平今年拾五才合五人ニ御座候」とあって、先の永倉新八日記と比べると、近藤、沖田、永倉、藤堂のほかに近藤の養子周平が加わっていることが見える。この人物が、加わっていたと考えていいのでしょうか。

歴史に名を残す新選組の人間ドラマが、良くも悪しくも、さらに熱気を帯びてくることになります。




1520. 真忠組と新選組の時代(2) さわらびT  2004/07/11 (日) 16:02
さて、池田屋事件の真実とはどのようなものだったのでしょう。元治元年六月五日(1864年7月8日)仏暁、枡屋宅を新選組が襲い、その主、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎を捕縛した。拷問の末、白状したのは市中放火の計画であった。この枡屋に狙いを定めたのはその五日程前、宮部鼎蔵の下僕忠蔵のあとをつけてのことだった。

さて、池田屋に最初に踏み込んだのは、永倉新八の日記によれば近藤、沖田、永倉、藤堂の四名、「今宵旅宿お改めであるぞ」と告げ入ったが、すぐに戦闘になったようです。(木村幸比古『新撰組日記』PHP新書、2003年を参照)

この永倉日記とは別に近藤書簡があるので、復元は可能らしいのですが、証言には多少の食い違いもあるようで面白い。ところで沖田はこの戦いの最中に吐血していますね。

東京成徳大学の鶴巻先生が近藤書簡をHP上で掲載していますので、ご参照下さい。関係する部分を、引用させていただきます。

「其夜五ツ時与相約候処惣方御人数御繰出し方延引時刻も移候間局中手勢之ものニ而右徒党之もの三条小橋縄手二ヶ所ニ屯致居候処江二手ニ分連四ツ時頃打入候一ヶ所者壱人茂居不申一ヶ所ニ者多勢潜伏致居兼而覚悟之徒党之族故手向戦闘一時余之間御坐候打取七人手疵負せ候者四人召捕人弐拾三人右者局中之手働き候漸事済候後江守護職所司代一ツ橋彦根加州等之御人数三千余出張ニ相成夫より屯之所江打入候所会公手ニ四人召捕壱人打取桑名様手江壱人召捕翌六日昼九ツ時惣人数引揚申候前代未曾有之珍事御座候一新選組ニおゐては深手藤党平助薄手永倉新八外ニ手疵を請候もの無之先者御安心可被下候」
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/bakumatsu/bakumatsu-sinnsengumi.htm

なお、『幕末・明治民衆運動史研究会』でお話を聞かせていただいた富成博先生に『新選組・池田屋事件顛末記』(新人物往来社、2001)という著作があります。池田屋事件は、明治維新を1年早めたともいえると指摘されてます。




1519. 真忠組と新選組の時代(1) さわらびT  2004/07/11 (日) 15:57
『幕末・明治民衆運動史研究会』で、学んだことですが、文久三年(1863)から元治元年(1864)にかけては興味ある出来事が起こっています。

文久三年11月、武蔵国榛沢郡中瀬村の豪農、桃井可堂(もものいかどう)を中心に慷慨組が組織され、上州赤城山に蜂起・横浜襲撃が計画されました。同時に、後に高名な実業家として知られる渋沢栄一らも天朝組を結成・呼応したのです。この企ては、それぞれの事情から結局は中止されたのですが、おそらく関連した決起であったといわれます。当時村上四郎と名乗っていた相楽総三は、実家から五千両という大金を引き出していますが、この赤城山挙兵に対して提供されたと推測されているところでもあります。
次いで、実際に決起したのが、千葉県の九十九里での楠音次郎・三浦帯刀を中心とする真忠組でした。これら慷慨組・天朝組・真忠組という関東尊攘派の相互のつながりについて、高木俊輔先生が水戸脱藩士や上州・野州・武州各地から出た草莽たちの間に、いくつかの連絡網が交錯していたであろうし、中には秘密の中央司令部というものができつつあったのではないか、と分析されたところです。(『明治維新草莽運動史』勁草書房、1974)

現在、放映中の大河ドラマ『新選組』ですが、幕末・維新史に関心を持つものとしては、興味はないこともないですし、上に書きました時期と重なる時点に生起した池田屋事件がいよいよ登場するようです。前回放送分では、確か大坂町奉行与力内山彦次郎の暗殺事件件が取り上げられていました。元治元年五月、内山の殺害に、手を下したのは、近藤をはじめとする、土方、沖田、原田、井上、島田に永倉を含めた十人余りの新選組であるという説が永倉新八の証言に基づいて伝えられているのですが、どうも違っているようです。大坂では、すでに有名な大塩平八郎の決起があったのですが、その際にはこの内山がその鎮圧にかかわっていたようです。




1518. 「幻の百済と李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記を」やっと完結しました さわらびY(ゆみ)  2004/07/11 (日) 07:33
「幻の百済と李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記」やっと完結しました。
 天気に恵まれた後半、特に李氏朝鮮の史跡紹介は、画像中心の肩のこらないページですので、(文章は読み飛ばしていただいて)画像だけでも見ていただければ、幸いです。

 まさみさま
 お約束どおり、最後は「冬ソナ」のヨンさま。
 Tにあきれられられそうですが、意味はわかってくださりますよね。

 さて、これからは、秋の八千代市郷土歴史研究会郷土史展と、「史談八千代」の原稿書きに専念しなくちゃ。
 それにしても、梅雨はどこへいったのでしょう。本当に暑いですね。




1517. 高句麗遺跡群の世界文化遺産登録 さわらびT  2004/07/09 (金) 23:02
高句麗遺跡群の世界文化遺産登録が決まりました。7日朝日新聞夕刊に西谷正九州大学名誉教授が一文を寄せておられます。中国では、世界文化遺産登録申請に先立って、遺跡群の分布調査や発掘調査を行なったことを紹介しておられます。西谷先生は、5月に中国側に遺跡群を現地調査されたようです。

その成果の一つとして、太王陵で出土した銅鈴に刻まれた銘文=「辛卯年太王陵□造鈴九十六」ですが、好太王が辛卯年(391年)につくる(ところの)鈴96(番目)、これで太王陵=好太王陵に特定されたと書いておられます。

ところが、前にも紹介しましたが(掲示板1276)、3月にご講演いただいた早乙女先生は、これは墓の修理に基づく儀式の遺物の可能性も否定できないという説を述べられました。従いまして、私は太王陵=太王陵説には慎重に検討すべと考えます。

前にも書いたことのくり返しなのですが、広開土王碑文に「国岡上広開土境平安好太王」と記されることから「国岡上」、即ち岡の中腹に位置する将軍塚が軒丸瓦の年代観をもあわせ考えるとふさわしいとのことです。(『朝鮮半島の考古学』)

早乙女先生も、西谷先生と同時期に現地訪問されたとのことです。出来れば、またお話をうかがう機会があれば、と考えています。

西谷先生がお書きになっているように、キトラ・高松塚の壁画と高句麗起源の四神図の関係など、見過ごせないテーマもあります。今回は、北朝鮮・中国にまたがる遺跡群の登録という意味のある出来事です。今後の研究・調査の進展に期待します。




1516. Re^5: 鬼岩寺を再訪-忍性さんについて さわらびY(ゆみ)  2004/07/09 (金) 00:07
>忍性さんというと日蓮さんと、かなり仲が悪かったようですが、

日蓮の言葉では、「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説」という有名な言葉がありましたね。
歴史的には、鎌倉の極楽寺を拠点に北条得宗政権の民生・経済の行政に関与していた忍性に対して、日蓮は、北条政権とともに特に鋭い批判をしています。

また「聖愚問答鈔」の一説でも、極楽寺が慈善事業の資金として、橋を架け関税を取ったりすることをかえって「諸人の歎きこれ多し」と律宗の批判をしています(西岡芳文先生はレジュメで、この批判は日蓮没後の擬作か、という疑問を投げかけておられますが・・)

仏教徒でもない私は、精しく教義を知る立場でもないので、宗教論や批判は差し控えますが、和島芳男氏は、その著者「叡尊・忍性」で「叡尊の戒徳と忍性の行業とはいにしえの行基菩薩に並び称されるもの」と評価しつつ、南北朝後の衰退について「慈善救済が貪欲をいざない、殺生禁断が反抗を招いたとき、宗教はむなしいものとなった」を延べています。

私が忍性の足跡を追うことになったきっかけは、地域の日蓮宗や真言宗の寺々が、実は鎌倉時代に隆盛だった西大寺流律宗の痕跡を秘めているという歴史の謎でした。

鬼岩寺もそのひとつの足跡かもしれませんね。

> あと、忍性さんには後世に残るような著作が無いようですが? 
そういえば、伝記はいろいろ伝えられていますが、行基さん同様にまとまった著作がなく、断片的な書簡や願文ばかり。終生、理論よりひたすら実践の人だったからでしょう。




1514. Re^4: 鬼岩寺を再訪 磯自慢太郎  2004/07/07 (水) 22:58
> お寄りになるついで、お持ちくだされば幸いです。

では後日、訪問の際には必ず。
ところで二つほど、お尋ねしたいのですが、忍性さんというと日蓮さんと、かなり仲が悪かったようですが、その辺については、どうお考えですか? 今も創価学会ではボロクソに叩いていますが。
あと、忍性さんには後世に残るような著作が無いようですが? これは宗教家としては珍しいと思うんですが、どうでしょうか?




1513. 日本国憲法を考える さわらびT  2004/07/05 (月) 22:11
もう数年前のことです。『幕末・明治民衆運動史研究会』で、学んでいました。現行憲法を守る立場で活動されておられる高田さんが代表でした。その頃、私の考えを聞かれて書いたのが次の文章です。

「現行憲法についてわたしたちが考える際、忘れがちながらしかもあまり触れられないことが有るように思います。
 歴史的に考えこの憲法は決してGHQに押し付けられた憲法ではないことを、多くの研究者は指摘しています。でもなぜなのでしょう。あまり積極的に主張されてこなかったのではないでしょうか。立証が不充分だというのでしょうか。押しつけ憲法攻撃の前にたじろいではいないのか。そんなことを考えながら今一度成立過程を振りかえって見たらいかがでしょうか。
 この国には、今をさかのぼること百年前に、自由民権運動があったという歴史的事実でなのです。それはわたしたちに残された大切な財産なのです。
現在の日本国憲法と植木枝盛の起草した「日本国国権案」がよく似ていると指摘されています。日本国憲法の原案となったマッカーサー草案の作成にあたって、GHQはいくつかの憲法草案を検討した上で、日本人有志が集った憲法研究会の草案を参考にした形跡を残しているらしい。この憲法研究会の草案の作成にあたって、植木枝盛の研究家だった鈴木安蔵氏がこの植木枝盛の草案などを参考にしたようです。ついでに言えば、憲法研究会には、高野岩三郎、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰男、室伏高信、鈴木安蔵といった当時進歩的といわれた人々の集まりだそうです。
 植木枝盛の「日本国々権案」が米国の独立宣言や憲法にある人権規定、なかでも抵抗権、革命権を定め、さらに連邦制をとっている一方、日本国憲法に定める天皇制、人権規定とも共通する規定を持っています。
 またあるいは次のように言うこともできるでしょう。当時の民権家たちが起草した、まさに自主的な憲法草案を徹底的に押しつぶし、その上でドイツ帝国の憲法にまねて作ったのが大日本帝国憲法です。その圧殺された二十数種の民権家の草案の中には、現憲法をつらぬく三大原理――主権在民、平和主義、基本的人権の尊重の思想が、時代的な制約はあれ、様々な形で表現されていたといわれます。
 こんなことを考えて見ますと、現行憲法を学ぶとともに、自由民権運動期の自主憲法制定時代の息吹を追体験したくなります。」




1512. Re^3: 鬼岩寺を再訪 さわらびY(ゆみ)  2004/07/05 (月) 00:11
磯自慢太郎さま

関東は、空梅雨のような、カラッとした晴天が続きますが、東海地方は、どしゃ降りのようで、だいじょうぶですか

> もしなんでしたら、このページ、プリントアウトして持って行きますが?

お寄りになるついで、お持ちくだされば幸いです。




1511. Re^2: 「発掘された武寧王陵」をUP さわらびT  2004/07/04 (日) 23:10
武寧王陵には墓誌石が二基あります。有名な、墓誌については紀行文に載せました。

もう一つの墓誌はどちらが表かなんともいえないのですが、仮に王妃墓誌を表と考えておきますが、そこに刻まれているのは
「丙午年十二月百済国王大妃寿
 終居喪在酉地己酉年二月癸
 未朔十二日甲午改葬還大墓立
 志如左」
つまり、王妃が丙午年(526)になくなり王宮から「酉(とり)地」(西の方角)でもがりが行なわれ三年後に合奏されたことがわかります。艇止山遺跡というのが宋山里古墳群のある艇止山の丘陵の北端にあるそうでそこに遺構が検出されているそうです。(早乙女雅博『朝鮮半島の考古学』)

裏面が、買地券でして、
「銭一万文右一件
 乙巳年八月十二日寧東大将軍
 百済斯麻王以前件銭訟土王
 土伯土父母上下衆官二千石
 買申地為墓故立巻(券?)為明
 不従律令」

乙巳年(525年)8月12日寧東大将軍である百済斯麻王は前件の銭をもって土王や土伯や土父母や上下衆官の二千石にうったえた。申(さる)の地を買い墓となす。ゆえに巻(買地券)を立て明らかとした。律令に従わざれ。 (「巻」は「券」とする釈文もあるのですが、ここでは、『朝鮮半島の考古学』の解釈を載せました。)

面白いのは、最後の「不従律令」です。中国では「如律令」「有天帝教如律令」「有天地教如律令」とあって、道術の効果が速やかに表われることを願う呪言として使用されていたらしい。ところが、これが形式的には結びの言葉として「律令」をあげながら、「不従律令」としたのは独特の道教受容の面を見ることができると増尾先生は述べておられます。(増尾伸一郎『万葉歌人と中国思想』より)

以上のことは、あまりふれられることもないと思えましたので、付け加えます。




1510. Re: 「発掘された武寧王陵」をUP さわらびT  2004/07/03 (土) 23:05
武寧王陵に関連して思いつくままに・・・

『日本書紀』武烈三年(501年)十一月に「百済の意太郎卒せぬ。高田丘の上に葬る。」という記事が見えます。岩波版『日本書紀』の注釈を参照しますと、「「大和志」に意太郎の墓は大和国葛下郡岡崎村(今、大和高田市岡崎)にあると見えている。」とあります。大和高田市の地名起源説話記事にもなっているようですが、この墓がどこなのかはわかりません。

さてこの「百済の意多郎(おたら)」とは何者でしょうか?同じ『日本書紀』の注釈には「日本に来ていた百済の王族かと思われるが不詳」とあります。したがって独断的な解釈も可能なわけです。

武烈紀は次に暴虐記事(人の髪を抜き木に登らせてその木を切り倒す)があって、武寧王即位記事と続きます。紀行文に載せましたのでご参照いただけるとありがたいですが、百済の末多王も暴虐な王として排斥され、武寧王が登場するわけです。意太郎の死をここに配していることに何か意味があるのでしょうか。武寧王と、親しい関係の百済の王族だとしたら、武将である王族・意太郎が死ぬような戦いがあって、その伏線的な意味のある記事であったのかもしれません。

「大和志」とは異なり「高田丘」を高井田山古墳(柏原市)に関連付ける坂本先生の説を以前紹介したことがありました。武寧王陵の火熨斗と高井田山古墳のそれが同一形式と考られるとすれば、まさに同時代の出来事ということになります。

『日本古代氏族事典』(佐伯有清編、吉川弘文館、1994)の「高田氏」の項をみますと、(1)「高田首」として「高句麗系渡来氏族。」とあります。また武烈紀の「高田丘」(奈良県大和高田市岡崎)が本拠地か、とも書かれています。『新撰姓氏録』右京諸蕃下に「高田首。出自高麗国人多高子使主也」とあるのが根拠のようですが、「意太郎」との関連は不明です。




1509. Re^2: 鬼岩寺を再訪 磯自慢太郎  2004/07/03 (土) 22:22
> ご住職もこのページをご覧になっておられるのかしら?
> http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/1-11hujieda/1-11hujieda.htm

年配の方ですから、ネット環境にあるかどうか? 
もしなんでしたら、このページ、プリンアトアウトして持って行きますが? 具体的に何日頃行く、ということではないんですが、その内にまた行くこともあると思うので。

> ご住職が、感慨深げにこの表白文をコピーされておられましたが、あのお忙しさの中よく私を覚えて下さっていらしたと、感慨深いものがあります。
>
桃崎先生と思しき方も話題に上りましたね。
入り口付近の石塔群に関連してですが。
「こういう先生が、こう言っていた」
という感じで。

もう少しはやく、藤枝の郷土史博物館をお訪ねすればよかったですね。
>
そうですねー。鬼岩寺の存在自体知らず、磯部先生の名前も知らないとは正直思いもしませんでした。

> 忍性さんのほうが数百年お若いですからね。行基さんは、忍性さんのあこがれの偉人。
> 忍性の足跡のあるところ、行基伝説が必ず置き土産になっていると、私は思うのですが・・

あー、なるほど。面白いですね。
自分は忍性さんは、あまり詳しいこと無いんですが。
ただ地元の人間としては、行基も空海も来ていて欲しいです。




1508. Re^2: サレジオ さわらびY(ゆみ)  2004/07/03 (土) 09:09
まさみさん、おはよう。開田さんはご旅行中でしたね。
 
> サレジオ教会は子どもの頃によく遊んだところです。私の生家は、大岡山です。

遊び場としては教会(幼稚園があった)のグランドのほか、環状7号線が工事中で、その広い建設用地とそこにあった大きな鉄管(水道幹線用?)に入ってままごとをしていた記憶があります。

> サレジオ教会はそのままだと思います。

恐怖の肥つぼのあったキャベツ畑も、ダイエーの駐車場や高級住宅街になり、まわりはすっかり変わっていて、たまに行くと「今浦島」です。
その中で、「すずめのお宿」とよばれた藪が、今は公園として残されているようですね。
坂も多く、教会へ行くにも「トリツ」の駅に行くにも、子どもの足ではけっこうきつかったように思います。

ところで、「水原華城」のページをUPしました。この韓国史跡のシリーズもそろそろラストスパートです。




1507. Re: サレジオ まさみ  2004/07/02 (金) 00:45
まさみです。
開田さまこんにちは!
 
>  その頃ののみ川周辺はキャベツ畑でした。畑の中を流れる小川に小魚もいた。すばらしい自然の遊び場でした。緑ヶ丘へ行く坂を柿の木坂と言っていました。

今も柿の木坂はありますよ。私は近所に住んでいますが、キャベツ畑も小川もなくて、立派な公共施設が建っています。
呑川は今は桜並木の緑道になっていて、春は見事です。
サレジオ教会はそのままだと思います。

そんな自然があったとは・・・ちょっと信じられないくらい変わってしまいました。




1506. サレジオ 北の熊   開田 誠 [URL]  2004/07/01 (木) 07:11
 ご紹介された山田教会の記事へいき、「日本史をみつめた”聖母”たち」の全篇を読ませていただきました。
 これから、旅たつ時なので、一言。 
 サレジオ教会は子どもの頃によく遊んだところです。私の生家は、大岡山です。うぐいす坂をくだり、のみ川(子どもはねんど川と呼んでいた)のそばを歩いて行くとあった。教会の庭には学校にもないおもしろい遊具があった。教会内部も探検したものでした。小学1・2年の頃でした。
 その頃ののみ川周辺はキャベツ畑でした。畑の中を流れる小川に小魚もいた。すばらしい自然の遊び場でした。緑ヶ丘へ行く坂を柿の木坂と言っていました。




1505. 大雪・姿見の池 北の熊   開田 誠 [URL]  2004/06/30 (水) 22:38
 26,27にぐるっとわが道東を500kmまわってきました。
 大雪の旭岳ケーブルに乗り、姿見の池を歩いて来ました。
 見た花々は、チングルマ、キバナシャクナゲ、ツマトリソウ、エゾノツガザクラ、ウジロナナカマド、エゾコザクラ、ミネズオー、ショウジョウバカマ、ジムカデ、メアカンキンバイ、エゾイソツツジ、トウゲブキ、、、などであった。
 イワブクロはつぼみでした。
 雪渓は例年より多いのであるということであった。
 歩いていると、ノゴマの鳴き声に気づいて見回すと、ハイマツの中に姿を現してくれた。そのハイマツを見ると紅い花をつけていたのだった。




1504. Re: 花々の観察整理 さわらびY(ゆみ)  2004/06/30 (水) 20:33
開田様
> 大雪・旭岳のロープウエイにのぼって、高山植物の花々を堪能してきました。

初夏の大雪の高山植物、いいですね。
若い頃、大雪の花が見たくて、旭岳から黒岳へ縦断しました。
ところが急な猛暑と落雷(足元を直撃!)に見舞われ、さらにブヨの大群に襲われて、散々な目に遭ってしまいました。

> はやく報告してみましょうと思うのでしたが、今ある用意に追われてしまっています。

明日もう対馬と田平へお出かけですか。(このレスが間に合うかどうか・・)
田平は、5年前、キリシタン史跡の探訪で行きました。
大正7年鉄川与助の作の美しく味わいのある田平教会が素晴らしかったです。

蝶といえば、平戸市生月町山田教会の内部が蝶の羽で飾られていました。そのときのルポがHPに残っていましたね。http://homepage1.nifty.com/sawarabi/4kakurenoseibo.htm

行ってらっしゃい、よい旅を祈ります。




1503. Re^2:高須郷のこと さわらびY(ゆみ)  2004/06/30 (水) 20:11
kagokakiさん、あるけ〜さん、高須と間宮氏の情報をありがとうございました。

「高須山」と幻の高須郷、「高須」⇔「鴻ノ州」(こうのす)の転化の可能性。謎ときの面白さが高まります。

>山梨主税之介というのが、間宮氏であるとする山梨の栗原家系図もあるそうで
> 16世紀の半ばには間宮氏がすでに入っていたのか・・

北総の江戸期の旗本は、土着ではない不在地主に近い領主という先入観がありましたが、原氏の傍流を含め、ちょっと頭を切り替えたほうがよいようですね。

今後の探求と報告を楽しみにしています。





1502. 花々の観察整理 北の熊   開田 誠 [URL]  2004/06/30 (水) 17:41
 観察の整理はたのしい。図鑑をいろいろとひろげてやっています。歩いていた時にも小さな図鑑を腰袋(大工さんが使うあれが便利で、私は重宝しています)に入れていましたが、その時のメモをもう一度整理していました。
 
 3週にわたってしまった入院生活から解放されて、26,27の2日はぐるっと500kmほど山々をまわってきました。大雪・旭岳のロープウエイにのぼって、高山植物の花々を堪能してきました。

 その大雪の花々の記録を整理していた昨日、突然、友人が東京から訪ねてきました。図鑑をひろげいくつもの本をちらかしたところで、昨夕は談笑。今朝は近くのあやめヶ原で花々を観察しました。まだ咲いていなかったつぼみがたくさんありました。トウゲブキは旭岳のふもとではすでに咲いていましたが、ここではまだつぼみでした。それやあれやのことも、また、はやく報告してみましょうと思うのでしたが、今ある用意に追われてしまっています。

 入院前より予約してあった旅行の準備です。7月1〜4日に九州まで出かけます。
 前々より、対馬へ行ってみたかったのです。また、たびらの蝶も見に行きたい。たびらへは数年前に行ったのが5月でした。その時よりも今ならば多いはずの蝶に出会いたい。それは、すごいぞと、つれをたきつけて、デカケラレルことになりました。
http://www.tabi-hokkaido.co.jp./neverland/ 



http://www6.ocn.ne.jp/~wildmk/





1501. Re:高須郷のこと あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2004/06/30 (水) 01:01

kagokakiさん、こんばんわ。
ありがとうございます。見落としていました。なるほど『千学集抄』の「ぬきけたこやかもい木は高須山にて切る。東のくふりやう一丁は東寺山にて切る。牛尾右近大夫殿ひかせらる。」というところがそのもとの情報源でしょうね。牛尾右近大夫が仁戸名牛尾氏だとすると、もっと南の千葉市中央区仁戸名から平山付近があやしくなります。しかし「高須」という名はみあたりませんね。「郷」というからには伝わっていそうですがね〜。千葉市若葉区大草に「鴻ノ州」(こうのす)「鴻ノ州台」という字名がありますが・・・・しかしその記事が突破口になりそうな気がします。さらに研究してみます。

>山梨主税之介というのが、間宮氏であるとする山梨の栗原家系図もあるそうで
ほほー。その辺も怪しいですね。